喪中の葉書で知った。
その人のお父さんやお母さんでなく、
まさに“その人”が亡くなった、ということを。
学生時代に出会った、
大好きな先輩だった。
一緒に紅葉を見に行ったり、
タイ料理を食べに出かけたり、
映画もいくつか観に行った。
年上の異性への憧れもあった気がするけれど、
それよりもずっと、
人間として大好きな人だった。
その人のことを
わたしは心から信頼して甘えていたし、
その人からも信頼されて
可愛がってもらっていたんだな、
と今ならわかる。
ごく普通に、
あたりまえのように、
また会えると思っていた。
いつかどこかで、
きたるべき時に。
いつかどこか なんてないのだな。
きたるべき時 なんて来ないのだな。
ただただ、悲しい。
あまりにも突然で
でも
その日からは、
もう半年以上も経っていて
目の前にご遺体もなければ
印刷された文字でしか
その人が生きて亡くなったことを
知ることができなかったので、
なんだかすべてが
夢か嘘みたいだった。
すごく悲しいのに、
その悲しさはわたしの手の届かない
なんだか遠いところにあるようで
うまく悲しむことができずにいた。
しばらくの間、
この気持ちを何に向けたらいいのか、
どう落ち着けたらいいのか、
扱いそこねながらも
慌ただしく過ごしていた。
今日、思い立って
共通の知人である他の先輩に
連絡を取ってみた。
その方とやりとりをし、
言葉を選んでいるうちに
遠くにあった悲しみが、
一歩 また一歩と
わたしのほうへ近づいてくるのを感じた。
いまはもう、
あの人はこの世にいないのだと。
死んだら二度と会えないのだと。
今さら遅いけど、
やっぱり生きているうちに会いたかったなあと。
最後に出会った時の大きな笑顔よりも、
二人で回転寿司を食べた日に
「結婚することに決めたから、言っときたくて」
とわたしにだけ教えてくれた時の、
あの照れたような笑顔を思い出す。
どうしてもっと、
会いに行かなかったんだろう。
きっとこれから
幸せになるんだな、と思った。
そして
幸せに過ごしていることも知っていた。
それでも、
もうその人には会えないのだと。
手の届くところに、
わたしの悲しみはやって来た。
いつかどこか、はない。
きたるべき時は
待っていても永遠に来ない。
生きているうちに、
会いたい人に会いに行こう。
悲しみも喜びも、
手を伸ばして触れて、
生きていたい。