みんなが寝静まった夜ふけ。


















ペディキュアを乾かしながら、


なんとなーく
昨秋のblogをたどってみていたら


目に留まった↓この記事。




  









最近、仕事でもプライベートでも、

“言語化する”

ということについて、
よく考えていたところでした。








わたしは心理系の仕事をしているため
日常的に、意識的に
“言語化”したり、してもらったり
することの多い立場なのですが






最近特に考えていたのが

―誰のための言語化か?

ということでした。











わたしたちはたしかに
言葉を操る世界に生きてはいるのだけど









子どもでも、
きっと大人でも誰にでも


言葉になるまえの
ゆたかな、尊い世界(の感じ方、捉え方)があって、





言葉はそれらに対して
決して偉くもなければ、万能でもない
ということ。







言葉になるまえのさまざまを
いくら表そうとしても




言葉になった瞬間、




削ぎ落とされる感覚や感情、イメージが
たくさん、たくさんある。















もちろん言葉にすることによって、
生まれるものもまた多いとは思うけれど。












言葉は、便利なのです。





誰かに理解されたり、
誰かと分かち合ったり。






そのためには

“言語化”するとシェアしやすいし、
支援したりされたり
つながったりしやすいのだけれど







それが決してすべてではない。





言葉の選び方、使い方で
意図せずに、不意に
嘘をついてしまうことだってある。







わたしのこの“愛しい”が
あなたのその“愛しい”と

はたして同じことを意味しているか?

なんて、
一生かかっても分からない世界。








言葉にするほどに、
行間に散っていくものたちや
失われる感覚がある。



















支援者として、
ひとりの心理屋として



言葉だけに頼ることはそろそろ、
辞めていかなければいけないな。
 


と思う。











言葉にすることを
目の前の相手に求めるわたしたちは、





 
ほんとうの気もちを
言葉にできているだろうか?




相手が言葉で表してくれること自体に
満足してはいないだろうか?




目の前の相手の、
言葉になるずうっとまえのその尊い世界に
目を見張り、耳を傾けることを
怠ってはいないだろうか?



















そんなことを
ぼんやりと考える、夜更け。