ノートタイムを
日々の習慣にし始めてですね、
本格的に書き始めたのは
今月からだから、
まだ十日とちょっと
なんですが。
ちょっと
あまりにも、
いままで
受け取り損ねていたーーー!!!
どんだけ愛されてたんーーーー!!!
どんだけゆるされてたんーーー!!!
という
ビッグウェーブ級の気づきが
まあ日常化しており、
一人で勝手に、
ぐわーーーー!!!
ってなったあと、
またまた勝手に、
ほくほくしております。
伝わる?笑
お腹のなかが
石焼き芋の屋台になった感じの
自家発熱な感じの、ほくほく具合です。
…伝わる??笑笑
すなわち、
内部の熱やほくほく具合は、
いまの外側の環境や条件には大きく左右されないのだ。
と、言いたい。
学生時代は
心理学を専攻してたので
内観療法とか講義で習ったんですけど、
(しかも三木善彦先生に直々に教わった。
って、今考えたら、もの凄い恵まれたことだわ)
あれ、たぶん
きちんと毎日やっていったら
すごいことになるわね。
講義の中で習っても、
じぶんごととして
その後もやり続ける学生なんて、
ほぼ居ないでしょう。
講義のなかでも
たくさん深い気づきがあったけれど、
毎日じぶんごととして
ノートタイムを作り、
じぶんと向き合い、潜る作業は、
ほんとうに
深い癒やしにつながる時間だと思う。
思う。というか、
いま、日々体験している。
というのも
ノートの白いページを前にしたら、
残念ながら、何ひとつごまかせないのですよ。
いや、正確には
ごまかした素っ気ない言葉を
物理的には書ける。のだけれど、
書いてるじぶん自身には、
それが、
ごまかしてる。
気取ってる。
言い訳してる。
って
ぜんぶぜーんぶ!
書いてるそばからバレるわけ。笑
上っ面の言葉しか紡げないとき、
潜ることへの抵抗があるのだな。
と、心の不透明具合がすぐにわかるのだ。
これがたぶん、
カウンセリングとかだと
そこはほら
グループダイナミクス
というやつなので、
(相手との対話や交流のなかで、やりとりが作り上げられ、
成立していくという集団力動というやつです)
よっぽど
キレの良いカウンセラーさんじゃないと
ズバッと言ってくれなかったり、
直面化させてくれなかったりする訳です。
カウンセラーたるもの
まずは
共感して、傾聴して。
というのが、まあキホンですからね。
占いや鑑定、エネルギーワーク系の人のほうが
たぶんズバッと言うよね。偏見かもだけど。笑
そういう意味では、
ノートタイムって
かなりの自己治癒力がある。
そこに改めて驚いています。
わたしは
二十歳前後に3回ぐらいかな、
当時のパートナーシップに悩んで
カウンセリングに通ったことがあったのですが
カウンセラーさんの目の前で
事実は開示できても、
感情や行動の動機や本音の希望、
そんなことは一言も言えてなかった気がします。
昭和感の漂うカウンセラーのオバチャンとの相性も、
正直、悪かったと思う。笑
生理的に好きになれないタイプだった。
だけれども
カウンセリングを受けた経験が
わたしにとって無意味だったか?
と言うと、
決してそうではなくて
その3回の、
面談と面談のあいだに
じぶんがじぶんについて
考えをめぐらせている時間
は、
とてもとても意味があったなあ。
と当時から感じていました。
でね、
わたし、その後
いわゆる心理療法としてのカウンセリングは
一度も受けたことがないんですよ。
そのオバチャンに会った3回は、
“オバチャン”はあくまでダミーであって、
たとえ相手がオバチャンじゃなくても、
当時のわたしはたぶん開示できなかったんです。
面談と面談のあいだに
わたしの心に浮かんだことこそが、
たぶんすべてなのだ。と思ったから。
その時間こそが、
わたしがわたしを癒やすための本体なのだ。
直感としか
言い表しようがないのだけど、
大阪市営地下鉄 谷町線に揺られながら、笑
当時のわたしは根拠もなくそう思ったのです。
だから、
もうオバチャンは必要ないなと思った。
(オバチャンて言いすぎてごめん。心から感謝している)
それで、カウンセリングを
じぶんから終わりたいと希望して、
終わりにしてもらいました。
その後、うつ病になったときも、
個人のメンタルクリニックにかかっていたけど
ドクター(今度は若めのオジサン笑)と
簡潔に話して状態を把握してもらい、
薬を調整して処方してもらうだけで、
カウンセリングは受けずに終わりました。
そういえば勧められもしなかった。
カウンセリングは
変化へのきっかけであったり、
心に風穴を開けてくれたり、
伴走してくれる方への報告の場であったり。
いろいろに、
とても重要な意味があると思います。
けれど、
やはり思うのは、
気づくまなざし
受けとる器
手放す手のひら
立ちあがる足
は、その人自身にしか
そなわっていないのですよ。
極論、
クライアントから見て
「カウンセラーが人生を変えてくれた!」
は、ありえるけれど
カウンセラーから見て
「クライアントの人生を変えた!」
は、ありえないわけです。
だから、
ノートタイムは
じぶんがじぶんのカウンセラーになり、
じぶんがじぶんに答えを出してあげられる。
たとえ
答えを出したり、
解決したりしなくても
それ。そのままでいい。
変わらないまま折り合っていく。
そんな決意が出来たり、覚悟が出来たり。
だから
このうえなく癒やされるのだな。
あ、これ、
たぶん続きます。笑
基本的信頼感と
規範性や道徳の獲得の関係について、
最近考えていることがめちゃくちゃ多いので
いずれ書きたいなあと思います。
急に内容や用語が
俄然、心理の人っぽくなっちゃった。笑