先週は家族が順に体調不良になり
ついに夫も熱を出し、


こないだの週末はひさしぶりに
がっつり家事育児をした。




それもそれで、
とてもかけがえのない時間。









家族の食事の準備ができるよろこび。




子どもたちと、
お散歩や外遊びができるよろこび。




わたしがつわりに倒れているあいだ
ずーっと張りつめて
仕事家事育児に励んでくれた夫が、
安心して熱を出せるようになった。
そんな今への、よろこび。




それを、
―よろこび―
と表現するのはふしぎかもしれないけれど、



わたしにとっては、
とてもうれしいことだった。



ああ、
夫がようやく熱を出せた。


いままで溜めていたものを
すっかりすっかり、
流しているんだな。


それぐらい、
わたしの体調も落ちついてきて
安心してゆるんで
いられるようになったんだな。



そう感じて、
改めて夫への感謝の思いがあふれたよ。






守られることや
尽くしてもらうことは
もちろんとてもうれしいけれど、





受けとった愛が
じぶんからあふれたなら


守りたい存在を、
めいっぱい守れること。


あふれた愛を、
惜しみなく渡せること。


そんなことに、
果てしないよろこびを感じる。






自己犠牲になっていないかな
じぶんが後回しになっていないかな

なんて
ご自愛を点検することも必要だけど、





時には掛け値なしに、
ご自愛なんて考えなしに


―あふれるすべてを渡したい。


その熱だけで、
目の前の大切な人に
いま持てるありったけの愛を渡す。



そんな瞬間があっていいのだと思う。



そして、
そんな経験がじぶんの愛の器を
どんどん大きくしてくれるのだと思う。










2年前も、
こんなこと↓を感じていたみたい。







週末やり遂げた とある仕事。


わたしには荷が重いのでは?
と、正直感じた依頼。


でも引き受けたときから、
わたし自身の知識 経験 気持ち 願い
すべてを込めて渡そう。
自然とそう決めていた。



いまのわたしが渡せるものを、
すっかり渡すつもりで。

意気込んで細かく準備したいっぽうで、
肩の力を抜き いたずら心でも取り組んだ。



大輪の花のような笑顔にふれ、
わたしも蕾がほころぶように笑えた。



今までのわたしの集大成であり、
これからのわたしの道標になっていく日。



終わったあと わざわざ
大先輩がそばに来てくださって、

―感情と知識とのバランスが大事だと、
あなたの仕事を見て改めて実感した。
ここまで感情に訴えかけた人はいなかった。

という ありがたい言葉を受けとった。


わたしのほうが、心が揺さぶられた。

受けとるのがこわくて 嬉しくて、
興奮して泣きそうだった。



すべてを渡してみたら、
からっぽのわたしに
種や水や光がまた降ってきて、
わたしのなかの季節はまた めぐっていく。



わたしが力を発揮することが
もっともっと 全体のためになればいい。


全体とか社会とかって
なんなのか よくわからないけれど

わたしがすべてを渡すことで、
誰かの心が少しでも動いたなら。
光をすこしでも感じてもらえたなら。



“わたしのために”

は いつもとびきりだいじだけれど、



そこを超えて

“だれかのために”

の世界で力を尽くしたい。




ここまで 
そうつよく感じたのははじめて。










↑この頃は、
ちょうど仕事が充実していた頃。


育休から復帰して1年が過ぎ、
経験値も上がってきて
難しい案件も任されるようになり、
挑戦しては実りや成果、結果を収穫し、
受けとる時期だった。



そこからまた
新たな土地を耕して
べつの種を蒔き、

水をやって
育ててみていたら

ほんとうに大切なことが
みえてきた。


それもまた、
蒔いた種からうまれた実りであり、
かけがえのない収穫だった。


仕事をとおしてそれらを受けとり、
またからっぽになったわたし。


そんなわたしはいま、
文字どおり
いのちを育んでいる道のりの途中。