ウエサク満月なのですね。
今回は射手座のエネルギーもつよいとのこと。



蠍座と射手座に
それぞれ4天体ずつあるわたし。
(いまとなっては、この偏りがすきすぎる)


わたしのための満月でしょうか 笑


バニーさんの表現がすき。



わたしはすべてをなくした、
ただのわたし以下になった、と感じて
そのわたしを生きることにも嫌気がさし、
死にたくなった。




死んだように生きてた時期があって、
死ぬことばかり考えては、それでも生きた。





なにもないからこそ、
なににでもなっていける。


そう思えたのは
そのあとのどん底のうつの時期で、
そこでほんとうの生きる力が湧いたもの。







あの頃のわたしは、
死にかぎりなく近しいところを生きてる。
と、当時から感じていた。






生と死は二極ではなく、
連続体なのだと思う。


生のなかには死の色の濃淡があり、
死のなかにも生の色の濃淡がある。


海面に空の色が映って
海のなかに空の濃淡が入り込むのと、
ちょうどおなじように。


自己受容や再生のまえに
自己否定や絶望があるのは、


死にかぎりなく近しいところを生きることで、
生の輪郭をたしかになぞることができるから

ではないかな。


他のだれかとかかわる日々を通して
わたしたちがじぶんの輪郭を知るのと、
ちょうどおなじように。




だから、
「死にたい」
と叫ぶことは

「解き放たれて生きたい」
と叫んでいることと、
本質的にはおなじだと思っている。




蠍座のわたしとしては
その濃淡のまじりあったカルチャーがすきで、
主人公が清濁あわせのんでいる生きざまが
描かれた小説が昔からすきだったな。




 


いま妊娠しているわたしだけど
出産のたびに、じつは毎回遺書を書いている。




出産に対して不安はない。

ただ、
死ぬかもしれない、と
冷静にどこか本気で思うから。




出産の場面は、命がけ。

生まれるかもしれないし、
母も子も死ぬかもしれないから。




これまで毎回、
びっくりするほど安産なんだけどね。




わたしの書くのは“遺書”と言っても
遺産相続についての細かな要望とかでなく、
夫に伝えたいことを今までは書いていた。



今回もうすぐ妊娠後期に入るにあたって
また 近いうちに書こう。と思ったとき、

今度は夫だけじゃなく、
子どもたちにも宛てて書かないといけない

ということに気づいた。



息子は小学生でひらがなも読めるし、
娘は読んでもらったら理解できる年齢。






わたしが、いなくなったら。

   



いなくなったら。






と考えてみたけれど、
なにも言葉が浮かばなかった。

夫に宛てて書くようには、
とても書けそうになかった。





わたしは子どもたちとの未来に、
まだまだ生きていたい。







死ぬことなんて怖くない。
いつだって死んで悔いのないよう生きている。 

そう思ってたけれど、

いまのわたしは
生へのつよい執着があるみたいだ。


わたしの相棒 アメジストさんを手にとり、
ウエサク満月の瞑想をしてみた。



白く氷った湖面から
たちのぼる湯気のような靄。

 

靄は時間をかけてゆっくりと
白い翼をかたちづくっていく。



音もなく 静かな誕生の予感。


 


静かなはじまり。


出ていくものも入ってくるものも
こころに浮かぶものも消えゆくものも
しずかに今はみとどけて、
この過渡期をわたしのままで過ごしたいな。