病室で過ごすひとりの夜を持て余し、夜ごと観る映画は他愛のないラヴコメディか音楽がテーマのものと決めていたが、体力が戻るにつれ、厄介な筋立てに、とりわけ「老い」のテーマに自ずから眼が向いてしまうので笑ってしまう。
 
 
 
 
 
 

 

 引退した音楽家たちが余生を過ごす「ビーチャム ハウス」での模様を描いた『カルテット人生のオペラハウス』は、ヴェルディが私財を注ぎ創建したミラノ実在の「カーサ リポーゾ ペル ムジチスティ(音楽家たちの憩いの家)」をモデルにしている。やはりこの家を取材し『トスカの接吻』というドキュメンタリーに仕上げたダニエル・シュミットが台本を書き、ダスティン・ホフマンが監督した。ちなみにヴェルディー夫妻の墓所も、この音楽家たちの憩いの家の敷地内にある。

 

 

 

 

 煩わしさ続きの実家、夫の身に起きた不条理な出来事。直近では展示会の準備と、音楽や映画が紡ぐ物語に集中する暇もなく時間に追われてきたものだから、好きな役者の映画もずいぶんと観落としていた。記憶の向こうからダスティン・ホフマンの名が浮き上がり、翌夜は『Last Chance Harvey』を観ることにした。若い頃にはジャズ ピアニストを志したという彼を彷彿とする内容だった。

 何を観たらよいか見当つかないまま始まった夜ごとの映画鑑賞も、1週間過ぎた辺りには上手い具合に作品選びの連鎖ができあがった。

 

 

 

 

 レンタルwifiとタブレット、そこにパソコンがあれば私のように術後の快癒を待つだけの気楽な入院暮らしは、どうにかやり過ごせそうだから、便利になったものだ。

 

 

 

 

 

 携帯の「豪雨」警報が鳴った直後に降り出した強い雨脚に慌て、窓から吹き込む雨に気をとられ階段を降りたのがまずかった。しっかり最期の1段を踏み外し転倒した。強打した頭の方を気にしながら起き上がろうとすると、簡単に立ち上がれない。それでも骨折という言葉は念頭に浮かばす、翌朝駆けつけた子供と受診した近所の医者で、救急車を呼ぶ案件と認識の甘さをあきれられながら、地域の救急指定病院にまわされた。ところがそこはコロナ患者のため満床に近く、中規模の総合病院に入院、2日後に手術を受けた。

 

 

 

 

 

 

 刈りとられる間際の黄色の稲穂が揺れる長閑な窓外と、患者の意向がすぐに病棟全体で共有されるコンパクトな病院組織が気に入ったが、機器や管につながれた状況が、否応にも3年前までの夫の様子に繋がり辛かった。

 ウィルス蔓延の直前のもっとも緊張した時期にICUから一般病棟に移ったものだから、一旦外に出たら2度と夫との面会は叶わない雰囲気を漂わせ組織保守のみに専心する病院側にひとりで立ち向かうには、そのまま夫の病室に留まる選択肢しか考えられなかった。

 

 

 その後ウィルス検査を受ければ入室を認めるという手順が整い、一旦は夫の部屋を出ることになった。冬の最中に起きたわずか5mgのウルブチドという薬の誤投与による医療過誤から三ヶ月が過ぎ、大学病院通りの桜の萌えだした若葉の様が、時間の経過の象徴のように感じられた。

 

 

 

 「1度家に帰るから」と声かけすると、夫はまだ多くの機器や管につながれ仰臥する身体を一瞬跳ね上げ、そしてベットにそのまま倒れ込んだ。彼の置かれた深刻さと今の私では比べようもないが、それでも夫の帰宅したいという意志願望の風景が繰り返し押し寄せてきた。

 

 

 

 

 術後1週間が過ぎると点滴の管も外れ身軽になった私は、シャワー浴も許可されリハビリも本格化した。そして周囲が驚くほどの速度で回復の途にある。当初全治2ヶ月といわれた怪我が、術後ひと月を向かえる来週には退院するほどに癒えている。

 

 

 

 

 「今は巣籠もり期間ですね。長い人生そういう時間も大切なのかもかもしれませんね、、、、、のんびり静養してリハビリに励んでください」と年若い人から優しい気遣いを受けたが、単身イタリアくんだりまで出掛けたりするものだから、足取り軽い印象が私にはいつもつきまとう。しかし針仕事に明け暮れる普段は、椅子に根が生えたような暮らしぶりだ。

 

 ただボローニャの教室で覚えた糸の動かしが、頭を揺らすたびに溢れていきそうで、それを少しでも早く手に記憶させねばという強迫感が私のステッチには貼りついている。「空中へのステッチ」という異名をもつこのAemilia.Arsと自然の呼吸のままに向き合いたい。

 青年のいうこの「巣籠もり期間」を天啓と受け止め、ステッチから強迫の縛りを払拭し、自在な息づきを針目が纏うようになればと念じている。

 

 

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 先週末はウンブリアのヴァルトピーナという町で刺繍と布の展示会が開催され、イタリア各地からそれに関わる組織が参加した。当然Il Merletto Di Bolognaも与えられたブースを、パオラやフランチェスカはじめ、ファビオーラ、マリーア・グラツィアの作品で彩った。フランチェスカは6月に日本でもとめたピーニャでのショールをほぼ仕上げたようだ。パオラの新たなバラのピンブローチが、活き活きとして美しい。

 

 日本から帰った直後こそ静まっていた彼らだが、間もなく様々なレースイヴェントに参加し活動を再開した。日本同様の酷暑下でこうした活動をしつつも、レース作業に集中する「巣籠もり時間」をしっかり我が身に保つ彼らに、いまさらに感嘆する。この動と静の絶妙なバランスがパオラの若々しさの秘訣なのかもしれない。

 

 

 

 

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 昔ながらの慣習を守り続けてきた修道院が運営する寄宿制の学校が、時代の変換期の新たな価値観によって資金不足に陥る。院長マザーオーギュスティーヌは、学校を売却しようとする理事長と対立し、チャリティーコンサートを企画してこの苦境を乗り越えようと試みる。これが『天使にショパンの歌声を』の主な筋立てだ。結局マザーオーギュスティーヌの努力は反故となり学校は閉鎖され売り払われ、マザーオーギュスティーヌも他の修道女たちもその場を去ることになる。
 
 
 学校売却の現実への怒りのなかで、マザーオーギュスティーヌは「私は人生を生きた」と明言する。
 
 
 与えられた生の道筋に降りかかる多くの出来事に、私たちは避けようもなく喜び、苦しみ生きていく。「神は乗り越えられる試練のみ与える」というのは本当なのだろうか。
 完璧な巣籠もりで生まれた余暇のおかげで、私は久しぶりに立ち止まり、映画や音楽を存分に感受し、少し強くなった気分だ。