今日は「越路吹雪のステージ衣装展」を見てきました。衣装もすごく良かったですし、クラシックな洋館のような建物がまた素晴らしくて、(中略) 良い時間を過ごせました。

 米倉斉加年が描いた越路吹雪の肖像画があまりに素晴らしく、図録かポストカードがないか聞いてみたら、なくて。

 

 

 

 息子ほどの年月の青年が、ときおり率直な心情を述べるメールをくれる。

 

 

 その日、彼は昭和初期に坪内逍遙の古稀記念に造られた博物館で「越路吹雪舞台衣装展」を見てきたという。越路の生誕100年を記念した企画で、彼女の舞台で使われたリナリッチやサンローランの衣装が展示されているのだから、服飾デザインを生業にする彼は、そうしたデザイナーたちが実際に生きた時代の衣装が並ぶ空間を堪能し、さぞ幸せだっただろう。

 

 

 

  

 

 
 

 

 

 

 米倉の手になる越路吹雪の肖像画といわれ、記憶の糸を手繰った。そうだ、米倉と越路は宇野重吉演出『古風なメロディ』というふたり芝居で共演している。あのとき彼女が演じたリージャの姿を描いたものかもしれない。この芝居のあとすぐに越路は急逝しひどく驚いた。「サーカスの歌」という劇中歌もある。

 

 

 

 

 米倉斉加年の『多毛留』は、たしかボローニャ国際絵本原画展で受賞しているはずよ。

 

 『多毛留』は知りませんでした。家に子どものころから『魔法をおしえます』という絵本があって、その世界観と絵の素晴らしさが忘れられません。

 

 

 

 少し前に他界された彼のお父様とは、そう多くの言葉を交わしたわけではないが、もしかしたら絵本選びとか、感応する美しさとかにどこか共通する感性があったかもしれない。

 

 

  

 

 

 

 

 

 

 絵師米倉斉加年との初めての出会いは、『多毛留』だった。あらかたの児童書を孫や和太鼓集団鼓童のメンバーの子供たちに渡してしまったが、エンデや佐藤さとる、さねとうあきら、村上勉、滝平次郎、新宮晋、米倉斉加年といった人たちの作品は、やはり最期まで手許に置いていたい。そういえばこうした児童書を納めた書架で、いちばんの長寿は「岩波のこどもの本」シリーズだ。当時小学校校長だった祖父が学校図書館の本の入れ替え時に、廃棄されるはずだった『ぞうさんババール』や『はなのすきなうし』『百枚のきもの』などをたくさんに貰い受け、就学したばかりの私に与えてくれた。

 

 

 

 

 童話の添え物として軽んじられていた子ども向けの絵を、「童画」と名付け芸術の領域にまで導いたのは武井武雄だと聞く。彼の手になる『九月姫とウグイス』は幼い感性への安易な迎合を拒むかのように、見慣れぬ情緒が漂っていたものだから、逆にその不思議さから深い印象を受けた。こぼれ落ちるように見開いた大きな目が子供向けだった時期に、キンダ-ブックには切れ長で細眼の子供たちが描かれていた。やはり武井武雄の作画だ。絵本を読む、見るという行為を通し意識せずに一様な価値観に組みしないことを覚えたのかもしれない。

 

 

 

 

 電車好きの子どもと読んだ1冊に、谷内こうたの『なつのあさ』がある。週刊新潮の表紙絵で馴染みのある谷内六郎さんの甥ごさんだ。

 

 

 

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 繰り返し見た証の破れたページを継いだテープは、50年近い時間のなかで黄変している。この本のお陰で至光社という本屋を知った。興味関心がそこに向くと、そこに繋がる一連を追いかける性癖で、このときも至光社の出版目録から気になる絵本を何冊も取り寄せた。そこに堀文子の『みち』と『き』があったのだ。

 

 

  

 

 

 

 

  当時は堀文子の自然に寄せる深い共感を知る由もなかったが、「人は道で別れ、かけがえのない人と出会った。追われて行った人もあり、帰る人もあったが、道は何も語らず、生きては亡びる、人の世の運命(さだめ)を運び、はてしなく続く。そして、道端の野佛にぬかずいて、人は旅の無事をいのるのだ」

 

 

 

 『みち』の巻末に記された堀さんの言葉に突かれ、本編の彼女の言葉と絵を心深くにおさめた。

 

 

 

 

 

 Aemilia.Arsの展示会を終えた頃に、春から三島で開催されていた「堀文子:没後5年 いのちの鼓動を描く」の会期終了が迫っていた。ナカジマアートの「堀文子の部屋」で見る小品ではなく、大がかりな作品や、ボローニャ国際絵本原画展で受賞した『くるみ割り人形』を実際に見たかった。

 

 

 

 レース作成で近目な暮らしをし続けたのだから、遠くを見るのもいいのでは、と仲良しが提案してくれ、まずは勝沼の丘陵にあるレストランで、甲府盆地を見渡しながら食事をした。翌日に身延線でぐるりと富士山を愛でつつ、三島の佐野美術館に向かった。乗り継ぎさえ間違わなければ、ローカル線の旅は片手にワインの、気楽な時間だ。

 

 

 

 

 

       

 

 

 80歳にしてペルーのインカ文明を取材し、ブルーポピーをもとめヒマラヤを旅した堀文子の生き様に関心を寄せる人々で、会場はむせかえっていた。会期終了のずっと以前に図録は完売したと教えられ、反響のすごさに驚いた。バブル経済に沸く日本が嫌で、イタリア語も話せないのにアレッツオに家を借り、トスカーナの春夏秋冬を描き始めたのは、彼女が70歳のときだ。日本とアレッツオの往還を75歳まで続けた堀の姿は、ボローニャと日本の行き来を未だ繰り返す私の標でもある。

 

 

 エンデの遺した「永遠におさなきもの」という言葉に思い至ることがよくある。精神分析家の北山修は『古事記』を紐解くようになったのは、こうした昔話に含まれる寓意への気づきからだったそうだ。すっかり文字読みから離脱した毎日だが、おさなき心の目もって、忘れ去らぬ書物たちを再読するのもいいかもしれない。