近づく展示会。こちらのレース仲間は身繕いの方に気分が向き出している。ネイルサロンを予約したの。美容院に行ってきたの。展示会用の作品作りに目鼻がついた証なのだから、そうした会話が嬉しく響く。この1年あまり、みんな本当に頑張った。達成感を満喫するところに行き着くことができ、本当によかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 極端に爪が薄く、右中指の爪など綴れ織り職人のように、糸1本が通過する溝がしっかりできてしまった。指貫を使えばよいのだけれど、細かな作業になるとついそれを外してしまう。イタリアの美容院で、本当に日本人なの?と驚かれるほどのくせっ毛なので、ほぼ同じ髪型しか選択肢がなかった。ステッチに費やす時間の多さゆえか、髪が櫛けずるたびにごっそり抜けた。それでなくとも細ってきた髪の嵩が目立って減り始め、加え髪を整える気分もなかったので、最近はまとめ髪で通している。似合うかどうかもう何も関係ない。

 

 

 

 

 展示会の事務的作業が始まった2月あたりから、来日するイタリア側と頻繁に連絡を交わすようになった。ciaoで始まり楽しげなことをいい述べ合うのではない。ひとつひとつが展示会に関わる何人もの人たちをまきこんでの事案だ。時差を考えこちらは早朝にそうした事案を送る。あちらは夕食も終わり落ち着いた時分。ところが時差など念頭にない向こうはお構いなく、こちらの深夜にあれこれを訊いてきた。

 

 朝になるまで放っておいてもよいものもあったが、いまボローニャ市への後援依頼の申請書を書いているのだけれど、、、云々。パオラとクラウディアが私の家に来て、日本でのスケジュールについて話し合っているのだけれど、これについて訊きたいのよね、急いで(in fretta)。それでいて丁寧に対応する私側の至急を要する問いには、なかなか返信してこない。

 日本とイタリアの企業間の連絡の橋渡し役をする友人がいっていた。「あの人たちって、関心が向かなかったら平気でいつまでも返信してくれないのよね。既読スルーなんて、もういつものこと」彼女のぼやきはそのまま私のぼやきになった。

 たいした技量でもないから、そのイライラが如実にステッチに反映する。意識の先に迫る展示会の期日があるものだから、それが痛かった。

 

 

 

 

 終わりよければすべてよし。いちばんに苦労したボローニャ市後援のロゴ記載も、案内状を印刷するまでには間に合わなかったが、先月半ばに完了できた。フランチェスカと私との不毛なやりとりに、パオラが自身のグラフィックデザイナーの次男に相談したに違いない。しかし彼の参加だけでは解決しなかった。こちらの仲間のお連れ合いや息子さんまで巻き込んでの騒動の賜物が、このロゴなのだ。よき結果のおかげで、いま私たちがいちばんに笑うのは、この騒動についてである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ボローニャ市の文化担当者が私たちの展示会を訪れるかもしれない、フランチェスカが少し興奮気味の語調で連絡してきた。期日までわずかなのに、イタリアからそうした人が本当に来るのか。イタリア語に長ける友人にdovrebbe venireにある可能性を思わず訊いてしまった。まぁ、そうなれば、それでよい。ともあれこの展示会にボローニャ市の後援をつけようと思い立ったのは、我が教室、Il Merletto Di Bolognaが伝承するAemilia Arsの技術を、ユネスコの無形文化財に登録しようと運動する市の、ひとつのポイントとなればと考えたのが、発端なのだから。

 

 

 

 

 日本のアンティークレース研究家と、そうしたものの収集に余念がないフランチェスカとの出会いもセッティングされた。パオラたちを茶の湯でもてなす段取りも整った。展示会最終日には、深草アキと甲斐いつろう両氏のセッションも企画した。

 

 イタリア国外をあちこち旅しているヴェネチア人が、来日前に私にメールをしてきたことがあった。「ローマ帝国から出た事がないので、今回の日本への旅がちょっと不安なの」。意識の基にローマ帝国がある彼女に驚愕したが、もしかしたら一般のイタリア人とって、いまだオリエントは外つ国なのかもしれない。むしろアフリカの世情についての方に気持ちを移入する会話に、何度も出会っている。外つ国オリエントを初めて訪問したパオラたちに、絹3弦の秦琴の音色はどのように響くだろう。

 

 

 

 

 就寝前にラジオ体操をしている。1日の固まった身体を解し体軸を少しでも正すと、よく眠れる。身体を動かしていると、時おり森田童子を思い出すのは、「感性も体力のうち」と彼女がラジオ体操をしていたのを知っているからだ。彼女の唄の風景に、私の風景が重なる。坂本龍一の名を耳にしたのもそうした時分だった。そういえば『5つの赤い風船』に参加した同級生もいた。

 

 

 

 

 

 

 

 森田の唄は蜉蝣を想わせる。聴き手が哀しくなるほど彼女が言葉に忠実であろうとしたのは、破天荒な親だったからだろうか。東京の西の隅っこで、森田が自身の唄そのままのように逝って、何年も経った。