諸物価急騰が話題に上がれば、ふだんまつりごとまでいい及ばない関係でもついつい政治や戦争にまで話が展開し、長くなることが最近はよくある。まして何事についても話が長いイタリア、教室で交わされる何が幾らになったという会話に、pensione、pensione(年金生活)という言葉が合いの手のように入り混じり聞こえる。私と同世代が半数以上のレース教室だから、それぞれの体験にも切実さがにじむ。




 教室用に買った電子レンジが来週には届くよ、とパオラがいった通り、次の月曜日には教室の片隅に白い電子レンジが据えられていた。教室はボローニャのシンボルのふたつの斜塔の真下、教会と扉で繋がるもと貴族の館の一室だから、分厚い漆喰壁を背にどっしりした時代物の家具もある。その脇に今物の電化品がちんまり納まっていた。


 去年まで昼は外でが当たり前だったのに、ちょっとした食事にもそれなりの出費を強いられる昨今、みんなも自衛するしかない。









 レンジで温めてみよう。パオラが私の分まで昨晩作ったというニョッキにトマトソースを絡め、レンジ対応の器に入れ持ってきてくれていた。

 ニョッキは涸れたじゃがいも、しかも赤い色ので作るのが好きだ、というパオラに粉とじゃがいもの配分を尋ねたら、そんなの適当だそうだ。目分量でそれらを混ぜ沸き上がった湯にふた欠片ほど入れてみて、それが柔らかったら粉を足せばいいのだからきちんとした分量などないよ、と笑う。



 レース作業となれば細かな糸目を針先で刺し示しながら、ここはどうのここはああのと、息詰まるほど講釈するのに、レースから離れると豪胆な性格が丸出しになる。




 今回は出発時からふたりの同行者がいて、彼らとは10日ほど一緒にアパート暮らしをした。そこに一週間遅れて、パオラの指導体験を目的のレース仲間がやって来たものだから、その間はアパートの食卓も賑やかで、ひとりでは食べ尽くせないここボローニャの美味いものを私も楽しめた。








 加えヴェネツィア時代から親しくしているトシが、日本での仕事を1年休み、春からボローニャ大学に通っている。彼を含め6人の日本人にパオラの総勢7人で、ボローニャから車で1時間ほど起伏のある道を辿り、カステル・デル・リーオにあるレストランで旬のポルチーニを堪能した。パオラがこの懇意のレストランに案内してくれたのは4年前のこと。その時も、どれが頼んだものでどれがサービスのものか区別がつかぬほどの料理が、テーブルに並んだ。ほぼ近隣の人たちしか訪れないような、居心地よい店だ。









 もしポルチーニを持ち帰り出来たらと事前にレストランに伝え、天ぷらを作る手はずを出発の荷物に入れた。ポルチーニと黒白双方のトリュフを散々に楽しんだ最後に、籠に盛られたポルチーニを手土産に貰ったものだから、みんな喜ばないはずはない。


 翌日アパートの食卓に並んだ食材は、揃った顔ぶれといいレストランの気っぷのよさといい、出会いの恩恵の賜物の贅沢さだった。








 短期滞在の人たちが全員帰国し、トシと私はそれぞれの目的に専念していたある日、せっかくだから外で食事をしませんか、とトシが声かけしてくれた。待ち合わせたボローニャの中心広場でどこに行こうかとふたりしてしばらく迷ったが、ホテル併設のレストランにそこでしか飲めないワインがあるらしいと提案すると、ふたつ返事で彼もそこにしましょうとなった。









 目当てのワインはサンジョベーゼ、ボローニャ近郊の特産ワインだった。レストランが店の味に合わせ提供するワインは、程よい個性で店の料理を引き立てた。私がプリモにパッサテッリを頼むと、メモする給仕が微かに口許を緩めた。いまどきの若い人が頼む料理でないから、あらっ、ばあさん風情だったかしらとも思ったが、運ばれてきたパッサテッリをトシに少し味わってみると勧めると、うまいですねぇ、こんな料理もあるんですね、と喜んだ。



 スイス国境近くのカネーデルリやトスカーナのパンツァネッラのような、「余ったものの再利用」料理に必ず興味が向かう。


 こうした類の料理がボローニャにもあるのを知ったのは、やはり年配者の多い教室に通っているからだ。








 Ognissanti、諸聖人という祝日の11月1日、駅からアパートに戻る道すがら、すごい人だかりのネプチェーンの噴水広場の辺りを避け、車止めの大通りをゆっくり歩いた。空いっぱいに拡がった大道人の奏でるギターの音色が、しずくのように降り落ちる。





            



 春秋あるコースの秋に合わせボローニャを訪れるのも、今年で5回になった。冬のヴェネツィアに17年通ったヨシフ・ブロツキは、自らを渡り鳥に見立てた。17年の長さは私には考えられない。この街をこうして歩くのも、もう最後かな。脈絡なくそんな気分がこみあげてきた。



 この日を境に気温がドスンと下がった。通り沿いの焼き栗やの屋台から湯気が立っている。去年焼き栗を受け取ったときのロザアンジェラの、はにかんだ笑みが忘れられない。彼女の住むラヴェンナは、その博物館があるほど栗は特産品だ。きっと幼い頃からおなかいっぱいに食べてきた好物なのだろう。


         




 全部持っていく?と訊いたら、小さく頷いた。あの頃すでに癌は再発していた。それでもちょっとかすれた深い声でレースを教えていたが、手すさびにnappina、タッセルの小さな珠を編む普段の姿はなく、真っ直ぐの視線は誰かれの視線と絡むことなく、虚空にあった。

 信仰深かった彼女のあの日々の居住まいを、今更のように思い出す。

 

 彼女が入院したのは、クリスマスの前だったはず。春に庭の牡丹の写真を送ったら、慰められる、ありがとう、と短いメッセージが返ってきた。それからまもなく容態が急変、あっという間に逝ってしまった。


 いつも教室で私の斜め前に座っていたロザアンジェラ。諸聖人の日の前日に彼女のミサが、教室に繋がる教会であった。




 



 




















 



 


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