少し前の話。5歳児の孫の手をとり歩いていたら、突然「ナナメってる」と彼女がいう。言っている意味が皆目わからず応えないものだから、再び「ナナメってる」と5歳児は繰り返す。

 

  「えっ?」

 

「だから、ここナナメってる、でしょ!」

 

 発した言葉の意味が私に伝わらないのにいらついたのだろう、足下の少し傾斜する部分を数回強く踏み叩きながら「ここ、ナナメってる」という。幼子らしからぬその剣幕にちょっとムッとしたが、「そうなんだ、斜めになっているのを、今はそういうのだぁ」とやっと返せた。造語の進度に完全においてぼりだ。

 

 

 

 

 何日かして知り合い夫妻の車に同乗させてもらったとき、孫とのこのやりとりを披露すると、国文教師のふたりは若い世代と日々会話しているものだから、自身たちの用語ではなくてもこうした言い表しに日々接していた。

「いや、WBC以来[カミッてる]という表現をよく聞きますよ。神がかっているという意味のようです」

 彼らと会話していて、そうか動詞につけていた連語の[ている]が名詞につけられるようになったのだ、と得心した。

 

 

 

 今流にいえば、ずっと「沼っている」暮らしにとうとう嫌気がきた。暑気に備え梅雨入り前におおざっぱでも、家内の水回りや衣服への風通し、寝具の整理をしていた主婦の流儀が、まったく手をつけられないままここ数年が過ぎ、雑然とした空間で暮らすことが嫌で仕方がなかった。

 

 

 もう少し暮らしの中に風を通したかった。掛け声して体を動かし始めるが、昔のようには集中が続かない。どこかを片付け出してもすぐに疲れ、物を散乱させたまま何日も放置させたりと、散々だった。

 

 

 とうとう気になる箇所のすべてを、お独りさま仕様に整え終え座り込んでいたら、事もあろうに自分のこの頭の内が、一番風通しの悪いことに思いが巡った。

 

 

 

 とにかく私の頭にはパオラから伝授されたアエミリア・アルスについての情報が、詰め込まれるだけ詰まっている。最初の2年分こそある程度まとめてあったが、その後に至っては母のこと、夫のことですべてが未整理のまま放置してある。

 レース、レースで毎日を送るのもよいが、基盤になるものをまとめておかなくては何になろう。

 

 

 

 重い気分で引っ張りだした大量のファイルや写真を項目ごとにとうとう分類し終えると、気鬱な頭がすっきり軽くなった。やり遂げたかった本筋は、生活全般ではなく、どうもここにあったようだ。

 

 

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 International Lace DayというWEB上のイベントが日曜にあった。前日の土曜に投稿を済ませ床に就いた時分に、レースのグループメールにフランチェスカからの、ロザンジェラの容態が悪化し病院に急搬送された、との一報があった。癌が再発し昨春に手術し、秋には教室で教えていたものの今年になり入退院を繰り返していた。

そしてよく日、Lace Day当日の朝に彼女は逝った。今日Riolo TermeにあるChiesa San Giovanni Battistaで彼女の葬儀が執り行われる。この教会の祭壇には絵描きであった彼女の父親が製作した<La Redenzione>がある。縦横10mに及ぶ壮大なタイル画で、そこにはモデルとなった幼い頃の彼女も描かれている。

 

 

 

 父親の手になる荘厳な光に包まれ、ロザンジェラが笑んでいるように感じられてしかたがない。

 

 

 

 

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 今年になっていくつの訃報に接しただろう。

 

 何もかもすっきりさせた。あれもこれもと追い込んで暮らすのは、もうやめよう。ひと針ひと針命を刻んでいければ、それでいい。