タイトな日程の5月だった。すべてをこなし得てほっとひと息ついたら、気が抜けたのだろう、何をするにもかけ声なければ動けない。老いたものだ。思えば病床の夫のもとに通いながら家内を大がかりに片付けた2年余りの身体記憶が、まったく欠落している。一生分の体力をあの時分に使い果たしたのかもしれないと思いあたる時がある。

 

 

 

 

 

 夏日の陽射しが照る連休のとある日、庭で火を起し子供たち家族総出で沖縄から送ってもらった肉を焼いた。2歳児などお腹がいっぱいになったら厭きてあちこちウロウロするだろうから、火傷だけは気をつけねばと心したが、最期までまったく料理から離れず、黙々と食べ続けていたのにはびっくりした。
 
 一旦は枯れかけたカルミヤに昨年おおがかりな剪定を施したのがよかった。年々衰えていく老木を案じ1度は切り倒そうかともいっていた夫が、息を吹き返し咲き誇る花の前でみんなが集う様子に、どこかで笑んでいてくれたとしたら少し気分が安らぐのだが。
 
 
 
 
 
 

 

 

 

 


 

 子供たちの喧噪が去った数日後、肉の手配をしてくれた沖縄の仲良し当人がアエミリア・アルスの道具一式を抱え、10日間のレース研修にやってきた。

 

 

 

 

 

 4月の広島でも、朝7時には宿泊ホテルの部屋で針を手にしていたが、今回は仲良しと私のふたりが作業机に並び終日を過ごしたのだから、「まぁ、今度も全然嫌な思いをしないで暮らせたね」と、ランブルスコで最期の夜を祝った。

 「今度も」というのは、2009年の春に彼女とはふた月のヴェネツィア共同生活を経験しているからだ。針を動かしながら私たちはあの時の思い出語りをした。夫も同行していた最初の2週間は彼の希望をメインにローマ市街、アッピア街道、そしてアッシージを巡った。歴史的な場を是が非でも訪れたいわけでもない私だが、城門を出てアッピア街道に向かうとすぐに見るドミネ・クォ・ヴァディス教会の、思いがけないほど小さく素朴なたたずまいには心打たれた。

 

 

 

 高校生の時に夢中で読んだ恋愛物語『クオ・ヴァディス』の壮大さが勝手にこの教会へのイメージを大きくしていたのかもしれない。


 

 

「主よ、どこに行かれるのですか?(quo vadis domine?)」

「私はローマに行ってもう一度十字架にかかるだろう」

迫害を逃れアッピア街道を行くペテロは、出会った主の言葉に踵を返しローマに戻り、逆さ十字に処せられた。

 

 

 

 サン・ピエトロという名を冠する魚を知り、名の珍しさからその由来を調べたことがあった。和名をマトウダイというこの魚の体側にはコイン状の黒い班があり、日本では矢を射る的から名付けられているが、西洋でイエスの使途のひとりペテロの名で呼ばれるのは、釣った魚の体にペテロが指を押し当てると、魚の口から役人に納める銭が吐き出たという話が起源になっている。体側にある班はペテロの指の跡というわけだ。

 

 

 

 友人とそんなこんなの話を交わしながら、10数年まえのヴェネツィア暮らしを懐かしんだ。

 

 

 私たちの10日間が、特殊なコピーをするために街中の大きな文具店に出向いたのと杜の中のレストランでクラフトビールを楽しんだ以外は、終日針を手にしていたと仲良しが迎えにきた夫に告げると、「はぁ!」と眼を剥きそれっきり言葉はなかったのよ、と笑い声をたてながら無事の帰宅を知らせてきたので、私も大笑いしてそれに応えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 月末の週末は長男のところで子守りの手伝いをして帰宅。門扉脇のホタルブクロに迎えられ気をよくし庭の奥にまで眼を向ければ、カルミヤ同様バッサリ手を入れた枇杷の実がしっかり色づいている。知多半島にある農家から送ってもらっていた、それはそれは甘い枇杷の種を小学生だった長男が庭に埋めた。もう30年以上前の話だ。

 

 

 

 

 明日は博論を無事提出し終わりやっと時間に余裕ができた長男の連れ合いと、次男の連れ合いの3人で約束していた「女子会」がある。3人が集まるに便利な駅近くになかなかの寿司屋さんを見つけた。今日の天候は30度にもなるというから、夕方に枇杷をもいで「女子会」に持参したら、子供たちもずいぶんと懐かしく感じるだろう。

 

 

 

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