今年は久しぶりにちびさんたちが一緒のクリスマスなの、そう吹聴したおかげだろうか、夫の友人から黒い森、フォレ・ノアールが届いた。チョコレートコーティングでなく、生クリーム仕立てが雪の降り積もった森を想わせる。キルッシュをたっぷり含ませたココア生地にダークチェリーが挟んである。玄人跣のあまりのできばえに、みなで歓声をあげた。1歳のちびさんも美味しさがわかったとみえ、大人と同じ大きさをあっという間にたいらげ、おかわり、とテーブルを叩く。

 

 

 私はパン・ドーロに粉糖を掛け輪切りにしたのを、少しずつずらしながら積み上げケーキに見立てた。一緒に作業をした5歳児は、すっかりケーキ作りをした気分になったようだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 この日、とっておきのバッカラ・マンテカートの缶詰を開けた。

 

     

 

 

 

 縁ありヴェネトのフネスという村で9月の1週間ほどを過ごせた。後でボローニャでのレース教室が控えていたから、大きな外出はできなかったが、村の住人みこったさんご夫妻のおかげで、壮大なトレ・チーメを眼前に昼食を摂るという、得がたい体験もした。紺青の空のもと神々しく屹立するトレ・チーメを見上げると、出発直前までの多忙ささえ些末な出来事だったような気がしてくる。

 

 
 
 

 

 その帰路に立ち寄ったコルティーナ・ダンペッツォのCOOPの棚で発見したのが、件のバッカラ・マンテカート缶だ。戻した干鱈をふわりと練り上げたペ-スト状のもので、パンに乗せたり焼いたポレンタと一緒に食べたりする。

 

  実は北欧で捕れた鱈を塩漬けにし干したものを料理する食文化は、欧州各地にある。大航海時代の長い船上生活を支えた知恵の結集ともいえる食材の痕跡が、ポルトガルのバカリャウ、スペインのバカラオ、そしてイタリアのバッカラと名付けられ郷土料理として語り継がれていて、興味深い。

 

 

 

 ヴェネツィアのバッカラ・マンテカートは、水でゆっくりと戻した干鱈をホイップするように練って作る、と聞いた。ヴェネツィアより少し西北に位置するヴィチェンツァという町にもバッカラ・ヴィチェンティーナなるものがあるが、材料に小麦粉が使われるとかいろいろで、双方食感も味わいもまったく異なる。

 冷水で長時間かけ戻したりと手間も時間もかかるので、家庭で作るというよりは、出来合いを買うとか、レストランで食べるのだが、ここのバッカラは美味しい、あそこのバッカラのふわりとした食感がよかったとか、話題にさえなる存在だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 リアルト市場のチーズを商う店で買うバッカラ・マンテカートが好きだった、とみこったさんに話したら、彼女もそこのがお気に入りだったようで、干鱈料理の記憶ひとつから会話があれこれと展開し、互いの距離が縮まったり深まったりする。こうした感覚が私は好きだ。

 

 

  魚の中で鱈にとりわけ興味を持っていたわけではない。すぐに臭いがたつから、生の鱈は今も扱いにくい。ほろほろ身が崩れる鍋も、あまり得手ではない。ただバッカラ・マンテカートとの出会いで、水分が抜け旨味が凝縮した鱈の味に目覚めてしまった。

 

 

 

  バスク地方の郷土料理にピルピルというのがある。干鱈をじっくりオイル煮するもので、専用の鍋もある。バスクの町を旅した際、その鍋を売る店を探し出し、とうとう抱えて帰った。

 両手で鍋を持ち、鍋底に火があたるかあたらぬかの微妙な位置で常に揺すりながら、鱈の皮に含まれるゼラチン質でオイルを乳化させていく。かなりの時間鍋を支え持つ腕力を要する調理法で、「これは男の料理だから」と、ボローニャの市場で干鱈を買ってきては、夫にピルピル作りを手伝わさせた。もう腕が痺れてきたよ、半泣き風情の夫を思い出す。

 

 

 

 

 

 アスパラ祭りの日曜日に、バッサーノ・デル・グラッパにアスパラ尽くしの昼を食べにいったことがある。店の入り口横のガラス窓の中に、干鱈がブレンダ川の冷水で戻される光景の古びた写真が、額に納められ飾られていた。

 日本でも棒鱈という鱈の干した食材がある。これを上手く戻し骨まで柔らかく煮付けるには、なかなかの技術がいる。あるとき、塩沢の蔵元で紹介された居酒屋で口にした棒鱈煮の、あまりの美味しさにびっくりすると、裏を流れる魚野川の雪解け水で戻していると話された。

  芳醇な酒造りに欠かせないその地方の清らかな水が、棒鱈の旨味も支えていたのだ。

  バッサーノのレストランで塩沢の居酒屋の店主の話が蘇った。


 

 

 

 

 

 

 

 

 フネスのみこったさんが、ご主人の畑のトマトを干してリコッタチーズを添え出してくれた。あっさりしたトマトの酸味と濃厚なリコッタの酸味の調和がなんとも心地よく、ただ日本で廉価なリコッタを見つけられないから、家の日常で再現するときは、手作りのギリシアヨーグルトを代用する。

 

 

 クリスマスの食卓だからと、前菜風にあれこれを盛り付けた皿に、ボローニャのアパートで作ってきた干しダッテリーニとギリシアヨーグルト、その脇にブランデーをさっとふりかけて寝かせておいた干し柿を置いたら、ヨーグルトとその干し柿との相性のよさに驚かされた。

 三原のレース友が届けてくれた、それはそれは見事な干し柿だ。瑪瑙色の貴石にも似て開箱した瞬間、思わず「宝石のよう」と見惚れてしまった。見事な容姿に素朴な味を秘めた希有な柿は、送り主の想像の範疇を抜け、我が家では立派な酒の友になった。

 

 

 「物くるる友」はよき友といったのは兼好法師だが、自分では絶対に手を出さない物を人様から頂戴して、初めてその食材の美味しさに目覚めることを多々経験してきた。有難いことだ。

 

  

 

 

 

 

 

 

 無類のチ-ズ好きを自称するが、とりわけ焼いたチ-ズ料理が好きだ。加熱し半ば溶けた熱々のチーズの旨さに、いつ目覚めたのだろう。記憶を手繰れば、料理人のタクがヴェネツィアの台所で、パルミジャーノを煎餅状にパッリと焼いた、その欠片をつまんだときに行き着く。

  夫の師匠がヴェネツィアを訪ねてきた。どこに行くにも徒で移動しなくてはならないこの町の、どこもここも案内するには、高齢な師匠の足では不可能だったから、ある日タクに夕餉の料理一式を作ってくれるようお願いした。おそらくパルミジャーノ煎餅は、何かのあしらえだったと思うが、フライパンにさっと広げただけで出来上がるから、つまみが切れたときなど、私も作るようになった。

 

 

 フネスのスーパーで食材を買っていたら、チーズが並ぶケースの一番右端に食パンのような四角い塊が眼に入った。みこったさんに訊けば、ドッビアーコというもので、以前レストランを営んでいたときにはその大きな塊を丸ごと買い、1cmほどに切り焼いて供したという。

 彼女の家で、出来たてのポレンタを添えた焼きたて熱々のドッビアーコにありつけた。

  コルティーナの町よりより北に位置するところに、ドッビアーコという地域があり、その地域で生産される希少なチーズを堪能したのも、今回の旅の得がたい思い出だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 牛と山羊の乳で作られるトーマというカマンベールに似たチーズがある。トーマの小さな形状のものをトミーノという。このトミーノをスペックというハムで周囲をさっと包み加熱し、とろりとさせたものが好きだ。たまに3,4cmに切ったスペックの上にトミーノの小片を乗せレンジで軽く加熱することもある。

 

 チーメ・トレを望むレストランのメニューに、そのトミーノのフライがあった。夏に熟した実で作ったのだろうか、ラズベリーのソースが添えられていた。決して便のよい土地ではないところで、地元で得られる限りの食材で作られたひと皿に出会うと、人の暮らしに対する知恵の深さに感心するあまり、気分まで高揚してしまう。

 

 

 

  

 
 例の三原のレース友がプーリアから取り寄せたスカモルツァを送ってくれりで、有難いことに、帰国後も未だあちらに滞在しているような気分を楽しんでいる。

 

 

 
 
 
 
 
 

 低温調理器を買うかどうか迷ったときも、料理人タクに相談した。すでに彼はその器具を使っていた。

  一定温度で食材にじっくり火を通すことで、微妙な旨味が引き出される割には、使い勝手がよいからおすすめだという。わずか30cmほどの棒状の器具で収納所にも困らない。念願の赤牛のローストビーフもマグロのコンフィも、気張らずに作れるのだから、有難いこと此の上ない。

 

 

 

 

 

 ヴェネツィアの町が187cmのアクアアルタに襲われた年に、間一髪でそれに遭遇せずタクはイタリアを引き上げ日本に帰った。タクと妻のベティの営むレストランが、年が開けたら福開で開く。福岡の宮浦という土地を旅するのも、帰国以来イタリア野菜作りに勤しんできた彼らの料理を堪能するのも、今から楽しみで仕方が無い。

 

 サン・ジャコモ広場の野外フェスタで、トレンティーノから移ってきて間もないタクが、焼き肉を頬張りながら、ヴェネツィアでカレーパンを流行らせよう、メロンパンはどうだろう、と夢語りをしたことがあった。その夢語りに相づちを打つ夫と私も、なんて若かったのだろう。

 

 

 

 

 

 鶏モモを恐竜の肉といってかじりついた五歳児に、サンタさんが煙突から入ってくるのに火傷しないよう、今夜はストーヴを早めに消そうね、と話したちょうどその頃、佐渡に住む、誰からもサンタそっくりといわれるカナダ人は、サンタクロースのパフォーマンスでイヴの食卓を盛り上げていたらしい。

  翌朝にその写真が送られてきた。これを見たらちびさんたちは喜ぶに違いない、と思っていたというのに、彼らの帰宅の準備に紛れ見せ忘れたのが、残念だ。

 
 

 

 

 

 

 

 

 

 幼子との会話に明け暮れした3日間が過ぎ、静けさの戻った早朝の食卓で、焼いたパネットーネにマディラ酒をたっぷりかけた。パン生地の香りにポートワインの香りが相まり、朝から芳醇なひとときを味あう。

 

 パネットーネの発祥はミラノ、パン・ドーロはヴェローナと聞く。そしてヴェネツィアにはフォッカチャ・ヴェネツィアーナがある。クリスマス時期にしか出回らないこのフォッカチャ・ヴェネツィアーナを、通年買える店がサン・バルバナ教会の向かいの小路を行った奥にあった。手作りチョコレートが美味しいと評判の店で、数こそ少ないがフォッカチャ・ヴェネツィアーナも置いてあり、それがいくらでもつまめる絶品だった。

  近くに住んでいたからいつでも買えそうに思えたが、困ったことに高齢な店主の健康状態次第で店が開くものだから、いざ買いに行くと、店が閉まったり売り切れだったりもした。

 

 いつだったか店主の孫娘が店を継ぎ、定期的な商いをするようになったと聞き、2017年の滞在時に買いに出向いた。その店のフォッカチャ・ヴェネツィアーナを味わったそれが最期だ。あの店はまだあるのだろうか。

 ミラノから着たパネットーネとパン·ド-ロを食べていると、無性にフォッカチャ・ヴェネツィアーナが恋しくなった。来年のクリスマス時期になったらタクに作ってもらえないだろうか。ヴェネツィアの思い出を共有できる料理人がいると、ついついこんな算段も出てくる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 年が明けすぐに夫の一周忌を執り行う手はずをした。祥月命日には少し早いが、それでもほぼ1年が経ったことになる。日々ともに過ごしているつもりだから、忌明けという感覚はないが、夫が愛でていた仏画を掛け部屋も整えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 自室で終日針を持つ暮らしがまた始まる。パオラからの細かなノウハウを試す意味で取り組んだ今回の図案だったが、小技を試し過ぎたようで、アエミリア・アルスというよりベルギーレースに近い仕上げになってしまった。それが気に入らない。年開けにまたこの図案に取り組むつもり。

 
 




 


 

 

 

 

 夫が不在となったこの家で、あと何年私はこうして時をやり過ごすのだろう。

 

 針持つ手を休め、そうした思いに耽ることもある年の瀬となってしまった。