ボロ―ニャは25°前後と毎日が暖かく、荷物を抱え歩いていると軽く汗ばんでくる。
 週の真ん中3日はレッスンがないので、早朝に針を持ち昼前には背筋伸ばしついで目的もなく、市場廻りをしている。葉物の深い青みにフィノッキの白、そこに多種多様のトマトが並らぶ八百屋の光景は、この国の旗のようだ。
 赤々したトマトの誘惑に負けてしまった。ひとりで食べる量には限りがある。そうだ干せばいい、と思いついたのには下地があった。


 ボロ―ニャに来る前にベネト州にあるフネスという静かな村でゆっくり出来たのは、そこに住まわれるみこったさんという方のおかげだ。彼女との縁はブログが繋いでくれた。村での初日にご夫婦の夕餉に招かれ、そのとき供された半干しトマトとチ―ズの取り合わせの味が忘れられなかった。  
 半干しトマトはご主人の畑で採れたもので、みこったさんがひと手間かけ作られたものだ。トマトの酸味がうまい具合にチ―ズの優しさを引き立てていて、すっかり気に入ってしまい、初対面の家の食卓だというのに、私は何度も手を伸ばした。


        


 下地処理すれば、後はオ―ブンに入れて放置しておけばいいのだからレ―スの合間仕事に作れると踏んだ。ベネトと隣合う州だが、ここボロ―ニャでは一切干しトマトを見ない。最初の訪問時、土産用に買おうとして、どこを探しても見つからず驚いた。聞けば、エミリア地方ではそもそも干しトマトを食べる習慣がないそうだ。そういえば品揃えがよい市場のチ―ズ屋でも、他州のチ―ズは置いていないかったりする。
 


 少し果肉が厚そうに見えたペリーノというトマトを選び、干し始めている。









 ご夫婦の案内で村近くの山を散策し、真似事でも茸採りが出来たのも希有な体験だ。こうして予定に惑わされたり振り回されたりせずに緩やかに自然を満喫するのは、いつ以来だろう。
 夕餉にオリ―ヴ油とレモン汁だけの生のポルチーニをいただいていると、これを見つけた時のみこったさんのご主人の、弾んだ声が蘇った。






 以前はお二人でレストランを営まれていただけに、みこったさんご夫妻は料理も配膳もすこぶる手際がよい。久しぶりに出来立てのポレンタも鹿肉の煮込みと堪能する。

 ひとつ心残りが、村にあったdobbiancoという四角いチ―ズ。1cm ほどに切りさっと焼いたものが気に入り、日本に持ち帰ろうと最近ボロ―ニャのチ―ズ屋を巡っているが、「それは山の方でしか手に入らないよ」と言われたりもする。やはり何事も感動した時に即決しなければならない。でもこうしたことを重ねた結果、帰国時のパッキングで必ずいたい目にあうのは何度も経験している。





 Tre Cimeを望む景色の中で口にしたtominoというチ―ズに、クランベリ―ソ―スを添えた料理も記憶に残る。このチ―ズをスペックで巻きレンジで軽く溶かしたり、ブリーの塊を焼き野菜に乗せ焼いたりする料理はヴェネチアでも作っていたから、軽く加熱したチ―ズ料理は私好みなのかもしれない。




                                      






 レ―ス教室に通うのが主目的だから、アパ―トでは健康を保てればそれで良しの料理しか作っていない。まぁ、出るゴミの少ないこと、でも配慮しても生ゴミの数倍プラスチックのゴミを捨てなくてはいけないのは、ここでも自国でも大差がない現実に戸惑う。



 煎ったヘゼルナッツとア―モンドを小瓶の底で叩き。少量の塩を加えオリ―ヴ油に浸けた。茹でた葉野菜と和えたり、パスタにあしらったりする。若い頃と違ってナッツだけを食べるとすぐに胃にきてしまうけれど、微量栄養素を摂るにナッツは好適だから、自宅でも常備してきた。和風出汁を持参し冷蔵庫にある野菜をなんでも刻みス―プにするのは、4年前にこちらで体調を崩した以来の知恵で、今回も雑炊にしたりと何かと役立っている。








  毎週月曜日の午後にボロ―ニャ歌劇場前の広場でひらかれるファ―マ―ズマ―ケツトは、日本でいえばカラヤン広場でのマルシェのような聞
こえだが、気取りのないいたって日常的な賑やかな空間だ。憧れの歌劇場横でこんな日常が展開されていると、初めて見つけたときはずいぶん興奮し、早速夫を案内した。
 先日もロ―ズマリ―を焼き込んだ歯ごたえのある美味しいパンと巡り会う。見つけたズッキ-ニの花で夫の好物のピカタも作る。





そう、あとは大量のプルーンを煮た。





 この3年の間WatsAppを通じ指導を受けたパオラ先生にきちんと礼を伝えたく、教室が開始する2日前にImolaの先生の自宅を訪ねた。Imola駅にはふたつの出口があり、前に先生が待っていた出口とは別のところから私が出たものだから、なかなか現れない私を先生はすごく心配した。だからと、今回はおおよその検討をつけ、先生が待つだろう出口近くの車両から降りたら、まさに降りた目の前に先生が立っていたものだから、人が振り返るほどふたりしてホ―ムで、子供のように騒いだ。




 先生は手打ちタリアテッレを用意してくれていた。ロ―マ生まれの先生は結婚前は生パスタをほとんど食べない生活だったそうで、パスタ打ちはご主人のお母さんから教えられたそうだ。どこでパスタを打つの?と訊くと卓の下を引いてみなさい、という。食卓の下にパスタ用のもう1枚の板が引き出る用になっている。

 
 7年前にご主人は他界されたが、幸せな暮らしだったと結婚時の写真を先生は指先で微かに撫ぜた。こんな小さな動作に宿る万感の思いに胸が熱くなる。
 現在アエミリア.アルスの技の踏襲者としてトップに立つパオラ先生の姿は周知するが、義母と暮らし3人の子を育てた主婦としての側面を今回は垣間見たことで、また先生への理解が深まった。小さな桃、というお菓子はamareneという小さなサクランボのエキスが入っているのだろうか、酸味が効いていて美味しい。それと先生手作りのamareneジャムの焼き菓子。準備をする先生は大変だったろうが、私にとってはまたひとつ忘れられない味と思い出がまた増えた。











 ヴェネチアのMocenigoでのレ―スイベントの前夜に本土側のヴェネチア、Mestreに住む元大家さんの次男家族と彼の自宅で夕餉のいっときを過ごした。Giorgioと妻のStefaniaとは彼らが入籍前の一緒に暮らしていた頃からの知り合いだ。Giorgioは弁護士だか、彼のお祖父さんも父親も建築家で、訪問先の仙台で階段から足をすべらせ亡くなったカルロ.スカルパという建築家とお祖父さんは親交が深かったと聞いた。実際家の階段の壁にはスカルパに贈られたという日本の絵が掛かっていた。


 そうした経緯があったからだろうか、大家さんの日本へ興味は初めから強かった。Giorgioは気質も興味するものも、一番大家さん、お父さんに似ていると姉のCinziaがいっているように、私たちがヴェネチアを訪れるたびに必ずGiorgioは連絡をくれ、いつどこで会おうの話になる。今回はウィルスのことあり夫のことありで、5年ぶりの再会だ。Campom Santa Margheritaで、私の一番歳上の孫と広場の溝に枯れ葉を落として遊んだGiorgioの子供は11歳になっていた。イタリアでもガンダムやポケモンはよく知られているらしく、そうした日本発の話題時に、Giorgioは浩太と遊んだ写真を見せたりしていりので、9年前の経験も覚えているという。率直で穏やかに笑む少年になっていた。


 5歳下の双子の女児含め、Giorgioの子供たちは絵を描くのが好きらしい。夕食前のいっときも双子たちは絵を描くのに集中し、仕上がるたびに私に披露してくれる。暑い中、ヴェネチアの街歩きまわった身体にはStefaniaの作ったカボチャのリゾットが優しく馴染み、有り難かった。
 夫同様弁護士の彼女は料理上手でもある。豚のモモ肉を牛乳と少量の酢で煮込んだ彼女のお母さん伝来の料理は、私も日本で作ることがある。Giorgioが3歳の時に妻を亡くしてからずっと寡暮しの大家さんは、ことさらStefaniaの手料理を好み、彼女の作るミネストローネを目を細め語る姿が懐かしい。





 中庭に井戸があるCampo Santa Margheritaの家は、一族の日常のゴミ捨て場もその庭の片隅に設けられていた。あるとき大家さんの捨てた袋の上に私の捨てるものを重ねるようとしたら、私が調理用に使っているものと同じ箱入りワインのパッケージが、いくつかあるのが見えた。
 ラウラという女性が一日おきに大家さんのもとで身の回りや家事全般をこなしていたから、彼女が何か煮物でも作ったのかと最初は思ったものの、それが大家さんが日常口にするワインだと間もなく了解した。以来、胸をチクチクさせながらそのパッケージを捨てたのをおぼえている。
 少し前にプルーンを煮るためにあのパッケージのワインを買ったら、突然にそうした記憶が蘇った。ボロ―ニャでも何度もこのパッケージを買っているのに、なぜ今になって昔の記憶が浮かんだのだろう。




 Giorgioの家には半地下を利用した、人が集う空間がある。白で統一されStefaniaの好みがよく反映されたお洒落な空間だ。そこにGiogioのお母さんが使っていた年代物のミシンなどが上手く配され、彼らの結婚時のワイン瓶が飾られている。奥にワイン好きな夫婦のコレクションが納められたワインセラーがある。そうだ、あの見事なセラーに目をやりながら、私はすべてに慎ましかった大家さんのことを、ぼんやりと想い浮かべていたのだった。