うちなータイムを楽しんできてください。うりずんの時期ですから、快適ですよ
 
こんなエールまでもらっていたのに、沖縄は早々と走り梅雨模様で、私の帰宅翌日には梅雨入したという。
 
 
 滞在中1日もカラリと晴れあがることはなかったが、やはりそこは南国、ザァっと雨あしが強まったかと思えば、突然雲間から強い陽がさしてきて、終日シトシト雨が降り続けるわけではない。地場産の野菜や南国の果物を名護のJAで揃えたあと、アグー豚を調達しようと我那覇に立ち寄っただけで、あとは友人宅でふたりして肩を並べ、ポツリポツリと言葉を交わしながら朝から夕まで針を動かす沖縄行だった。
 
 沖縄の夜明けは遅い。タイワンシロガシラの優雅なさえずりに誘われ、カーテンを開けると、揺れる椰子の葉の上にまだ白い月が照っている。
 
  
 
 
 
 
 
 友人の夫に毎朝餌の米をもらっているものだから、庭に群れるスズメは腹がポッテリしてる。彼らが落としたものから芽が出たマイクロトマトは指先大の大きさだが、野趣ある甘みに誘われ、いったん口にすると手が止まらない。
 
     
 
 
 
 今帰仁の乙羽岳に因んだオッパ牛乳のパッケージを見て、ニヤリとしない人はいないだろう。初めてこの牛乳にお目にかかったのは古宇利島に渡る橋の手前の小さな売店で、孫たちにソフトクリームを食べさていたときだ。夫も私も名付けの妙に笑い転げたその声が蘇る。記憶の起爆装置は思いもよらぬところに潜んでいる。
 
 
 
 
 
 
 今年のシーミー祭(清明祭り)の時期は過ぎていたが、ある日友人が夫を奉っての昼食を整えてくれた。たった3人で囲んだシーミーの食卓だったが、ちょうど夫の使っていためがねを持参していたものだから、それが遺影の代わりを務めてくれた。重箱の品数は奇数で、ラフティーの皮は上にして収める。島豆腐を揚げたもの、雑魚の天ぷら、ゴボウ、昆布、コンニャクの煮染め。アチコウコウのゆし豆腐のスープは、みなで台湾で遊んだときヒントを得たという友人作。
 
 夫より先に逝ってしまった教え子の論文集が、年内には出るという。彼女の早すぎる死を悼む集まりに、シーミーの重箱を取り寄せたらどうだろうか。ふとそんな思いがよぎった。
 
 
 
 
 
 
 人が集まり飲食をするとき、沖縄では幾種類もの料理を盛り付けたオードブルというものを用意する習わしがある。古来からのものではなく、本土復帰後、沖縄の経済が多少上向いた頃に実感したのがオードブル文化だった、と友人はいう。
 
 帰宅してすぐに迎える弔問客をオードブルでもてなしてみたいといったら、友人がラフティーを作ってくれた。三枚肉を何度も湯がきこぼし、都度冷まし浮いた脂を取り除く。その工程を数回繰り返したあとに、出汁と調味料で煮る。饗応の卓を撮し友人に送ると、「沖縄かぶれだね」と笑った。「沖縄かぶれ」に謗るにおいはない。ただ沖縄風というだけのこと。私たちは「沖縄かぶれ」の料理を囲みながら、方言に宿る人の心地の優しさを語りあった。友人は学校での方言札の経験者だ。

 

  

 

 

 
 

 

 ある日完全な弧を描く大きな虹が現われたが、呼ばれてカメラを向ける間もなく、弧は崩れていった。畑ではもうすぐドラゴンフルーツの実が生る。畑のわきのパパイヤには食べ頃を待って、ネットがかけられていた。

 

 
 
 

 

 

 3年前にAemilia Arsの初歩を直接手ほどきしただけの友人は、私の作った覚え書きを頼りにひとり針を動かし続けていた。今回彼女と私は小さいが、基本をどれだけきちんと刺せるかが問われる図案に取り組んでみた。茎が幾様にも絡んで、最期は中心の円形が方形に展開していく。茎の結合部分で基本に沿って針目をどう取ればよいのか。紙面上で茎を色分けしながら、何度も工程を確認しなければならなかった。

 

  

 

 

 

 

 
 

 数日前のパオラ先生のメールで、mia allieva(私の生徒)という私へのいつもの呼称が、ottima merlettaiaに変じていた。libro(本)に接尾語aioがつけばlibraio(本屋)だ。このまま精進を続ければ、私のステッチもいつかAemilia Arsとして評価されるようになるかもしれない。期待に添えるよう心していこう。