仙台に住む友人が塩釜港の旨いものをたくさん送ってくれた。青森の網元の娘だったから、彼女の魚を見る目は確かだ。まだ腹を出していないアイナメを、小出刃でさばく。独り暮らしでは、ほどよい大きさでも丸一匹となると持て余すことが多く、出刃の出番はなくなってしまった。

 着いた当日ならば三枚おろしで刺身もいけるよ、と友人はいうが、まずは大きなホタテの貝柱を刺身で戴き、アイナメは内臓処理し後日煮付けにしよう。

 

 

 

 

 

 

 

 盛岡は夫との最初の生活地だった。鯖どころか鰯の手さばきさえ出来なかった私が、結構な刃渡りの出刃を使いこなすようになれたのは、冬に滝沢村の魚やでぎっしり腹子がつまった雌鮭を見たのが、始まりだ。寒期には三陸の海で獲れたピチピチの魚が、あふれるように店先に並び、かきいれ時になれば道路まで棚がせり出す。とっぷり暮れても商いは勢いづいたまま、橙色の灯火にテラテラ光る鮭の銀色は、息をのむほど美しかった。

 


 新鮮な鮭の身を塩で締め、ばらした腹子と一緒に酒、ミリン、醤油で漬ける「紅葉漬け」は、その魚やの店主からの伝授だ。当時2歳前の長男は椅子によじ登り、流しにある腹子でいっぱいのボールに、ダメと何度制しても、親の手の隙間から腹子を手づかみし、口に押し込んでいた様子が懐かしい。

 

 

 以来私の手に余る大きさの出刃を使ってきたが、あるとき対馬の渡嘉敷島で、地元漁師から魚さばきのノウハウを教わる機会があった。おかげでかなり大きな魚でも、小出刃でさばけるようになった。

まぁ、まな板から余るほどの大きさを、これから相手にするようなことはないだろうから、この小出刃一丁を使いこなしたら、それで終わり。

 

 

 

 結局4年ほどでの盛岡暮らしが終わり東京近郊に移り住んだ最初の冬、あの紅葉漬けがどうにも口恋しい私は、滝沢に住む友人に雌鮭一匹を送ってくれるよう、泣きついた。

 ところが料理にかける手間を厭うような人ではない友人は、生を1本送るくらいならばと、私から紅葉漬けの手順を訊き書きし、丸ごと1本分を作って送ってくれた。

 

 

 

 私の家の近隣に300年来の歴史をもつ薩摩芋の産地があり、大欅が続くそこは、いも街道と呼ばれている。江戸期、幾度も飢饉に襲われたこの地を、当時の川越藩主柳沢吉保が入植する農家に5町歩ずつの農地を与え、九州から取り寄せたイモ苗を植えさせたことに、この街道は端を発する。

 私が40年懇意にさせてもらっている生産者の家の墓石には、隠れキリシタンを意味する型が彫られていて、先祖を辿ると、この地と瀬戸海の島を経て九州南端を結ぶ物語が伝えられていると、当主から聞いた。網野善彦の『海の道』を彷彿させる浪漫を身近に感じたときだった。

 

 

 10月に、件の盛岡の友人に例年通り薩摩芋を送るから、という電話をかけたら、東京在住であるはずの長女が出た。「あっ」と短い声を発したあとに、電話口の向こうでなにか話し合っている気配が伝わった。取り込み中のまずい時に電話をしてしまったかもしれない。ややして、友人本人が電話に出たが、何か足元のおぼつかぬ、転げるような雰囲気が察せられた。

 

 

  「ねぇ、私、たいへんなことになっちゃたのよ。少し前に退院してきたのだけれど、

   もう手遅れなんだって」

 

 

 出来上がったレ-スの写真を春先に送ったら、「もういい加減に真面目に生きるのは、止めなさい」と、褒められる前にたしなめる文が送られてきた。夫のことで緊張を強いられる暮らしの私を気づかってのことで、私は言葉の厳しさから彼女の優しさを受け取った。

 その後、家の整理と改修工事の多忙さから、私も疲労の底を漂うな時期があり、彼女からの音信が途絶えているのを少し訝りつつ、秋になった。

 

 

 

 連絡をしようと思い立っても、なかなかそれが出来ない。病状がわからないままのある日、固定電話の着信録に彼女の番号が入っていた。普通ならば女同士が電話を交わすようなことのない、夕餉の時間帯だ。嫌な気分が走った。翌日の朝昼夕に1度ずつ連絡を入れたが、応答はない。

 長女から友人の死を伝えられたのは、それから数日経ってからで、ちょうど私が夫の病院で担当医との面談の順番待ちをしている合間だった。

 

 

 地域の在宅医療チームの緩和ケアーに恵まれ、友人は自身の希望した通り、家族団欒の卓を最後の2日前まで囲みながら、過ごせたらしい。「今が一番幸せ」ということばを、何度も家族に伝えていたという。いかにも彼女らしい。

 

 

 新婚時をロチェスターで暮らしたことから、ホームパーティをたっぷり経験していた彼女の料理の腕は、その準備の段取りから素晴らしかった。

 時期になると私は必ず紅玉をぎっしりつめたリンゴケ-キを焼く。このケーキのためにあまり人気のない紅玉を、今でも必ず1箱用意する。

 粉を用いずクリ-ムチ-ズとサワ-クリ-ム、卵で作るチーズケ-キとこのリンゴケーキは、私の十八番ですという顔して振る舞ってきたが、実はロチェスター時代に友人が覚えてきたレシピにほかならない。

 右も左もわからぬ歳頃の盛岡暮らしで彼女と出会え、教えられたのはこうしたレシピだけではなく、料理を振る舞う際の姿勢をも学べた私は幸せだ。

 

 

 

 
 
 

 

 長女が、母親の短い療養期間の様子を伝えた手紙にも、「工夫を凝らした料理を振る舞うことも、彼女の生きがいでした。思えば料理は、周到な準備をすることと人を喜ばせることの大好きな母の生き方そのものだったと思います。」と綴られていた。

 台所の、すぐ脇には、食品を貯蔵する大きな空間が設けられていた。爽やかな小岩井の風が吹き抜けるあの空間で、バンコク在住時に覚えたというエビ料理を教えてもらったのが、今更に懐かしい。

 

 

 

 いつのころからだろうか、丁寧にお別れをしていこう、と念じている。それは、丁寧な暮らしとか、丁寧な仕事という類いでの「丁寧」で、私はいまそれを交友の軸に据えている。あのとき、秋の味覚を今年も送るからね、と伝えるのを多忙故と億劫にしたら、喉奥でかすかにヴィブラートする彼女の深い声を聞くことは出来なかっただろう。

 

 

 ホセ・カレーラスのコンサートにふたりして出かけたことがあった。

 

歌と歌のわずかな合間に、友人が微かに囁いた。

 

   ねっ、ちょっと私の手を触ってみて

 

じっとり湿った友人の手の内。

ううん?と彼女に顔を振ると、彼女が小さなウィンクをした。

帰宅する道すがら、

 

   もういい歳して、恥ずかしくなちゃった。興奮で汗ばんじゃったのよ。

 

 

 友人との思い出のあんなこともこんなこともと想っていると、無性にあの声が恋しくなった。

 

 

 

 昨日パオラ先生から、今回の展示会用に作成したふたりの女性像の写真が送られてきた。たしか8月には暑すぎてステッチどころではないよ、といっていたから構想から仕上げまでにかけた時間はみつきだろうか、大変な集中力に声もない。

 たおやかな風情の女性たち。わずか2種類のステッチだけで、彼女たちの心の中まで伝えられるのだろうか。ひとりは物憂げで月に想え、花かごを抱くひとりは太陽に感じた。

 

 

 真面目に生きなさんな、とたしなめつつもレースにのめり込む私の生き方を、彼女は見守ってくれていた。

 日本語教育への関わりから、長年留学生との交流もあり、あるときパラグアイのレースを留学生のひとりからもらったのだけれども、貴女が持っていた方が活かせるはず、と贈られたレースが手元にある。

 

 

 

 

 金銀ふたつのフレームに彼女たちをおさめ、パラグアイのレ-スの上に置いた。

月と太陽を往き交う友人の、無窮の命が想える一角が生まれのが嬉しい。