アブルツォのスルモ-ナのホテルの紋章は、オ-ナーの母親が作ったというトンボロだった。マリアはオーナー作。あまりのおてんばぶりで、しつけの意味も含め3歳から母親にレースを仕込まれたらしい。
イタリアにはたくさんのレース技術が存在する。スルモーナからバスで向かったアペニン山脈中のスカンノでも、その村独自のトンボロと出会った。
しかしイタリアレースといえば、ブラーノ島のレースを多くの人は思い浮かべる。
サンマルコ寺院のラグーナ側の横道の少し奥まったところに、手作業で作られたレースだけを商う店があった。アエミリア・アルスを習った最初の年、不慣れな土地より多少でも住み慣れたところの方が独り暮らしには安全だと、2017年の秋、私はヴェネツィアにアパートを借り、毎週ボローニャまで通った。そして教室のない日は、針先を凝視するばかりの目を解放するために、ヴェネツィアの町を一筆書きのように彷徨った。
そのレース屋を見つけたのも、そんなふらふら歩きの途次だった。10代からレース屋で働き、その後独立してこの店を開いた店主には、店を売らないかとのアジアマネーの話が頻繁にもちかけられると聞いた。手業だけのレースは高価だ。欧米人と日本人でなければうちのレ-スは買っていかないよ、と丁稚奉公からのたたきあげ風情の店主はいった。その店主でさえボローニャに伝わるアエミリア・アルスという名は初めて知る名前だった。
ベルギーレースのステッチ糸は上に引き抜くが、ボローニャレースは糸を下に引く。そうしたことは事前に調べ了解してレッスンに参加したのだが、とにかく難儀したのは、「止め」を持たぬステッチ糸の処理方法だった。10年ほど関わったベルギーレースの糸継ぎは予め作った図案枠に糸をからげ、作業を続ける。途中で糸が切れた時とか、どうしてもという時の処理方はないでもないが、めったにそうしたことは起きない。ボビンレースは、たしか機結びで糸を継ぐと聞いている。結び目のないアエミリア·アルスは一筆書きでヴェネツィアの町を歩くのと似ていると、ふと思いついた。
このレースのステッチを始める最初のひと目に刺した糸は、その刺した目のところで端糸とステッチ糸に分かれる。端糸は玉留めしたり絡げたりしないで後から、縁取りの芯や他の部分のステッチ作業に使うので、レース玉から取った糸は切らずそのまま引きずりながらステッチを進めていく。
何度か友人たちにアエミリア・アルスの簡単な手ほどきをしたが、あるところまで作業が進むと端糸だったものが、新たにステッチ糸として使われていく展開に、誰もが混乱した。教室に通った最初の年は、私も今までの端糸概念から抜け出せず何度も往生したが、手慣れてくると、「要(ステッチ糸)が不要(端糸)になり、不要が要になる」発想にすっかり魅せられてしまった。
だから込み入った作業になればなるほど、図案の下に未処理の糸がボウボウとぶら下がっていく。今刺しているザクロやドングリは連結する部分が狭い範囲に収まっているので、処理するタイミングが比較的早く、いつもならば作業のする中で絡んくるこの未処理の糸もさほど多くなく、助かっている。
何本もの未処理糸が見えるヴェローナの友人の作業。彼女の腕は先生級
寒い間は膝掛けをして作業する。そうすると、この未処理糸に時折膝掛けの毛足が絡む。膝掛けだけでなく、たとえば着衣のわずかな毛足が巻き込まれそのままステッチしてしまうこともある。巻き込んだ短い毛足にステッチしてから気づき、針先で除こうにも上手く取れたことがない。あまりしつこく針でそこをつつくと、ステッチ糸が傷んでしまう。
あるとき、私のステッチに赤糸が絡んでいるのを発見したパオラ先生が、「赤い服を着てないのに、見て見て赤糸が絡んでレース糸が染まっている」と大声で皆に知らせ恥ずかしかった。そのときの着ていたものは確かに赤ではなかったけれど、アパートで赤いものを羽織っていた。知らずうちにその羽織り物の毛足がステッチに絡んでいたのだ。ブラーノなどで白いエプロン姿でレースをするのは、もしかしたら着衣の毛足を巻き込まないためでもあるのだろうか。
レース作業用の仕事着のような羽織りものを作った。残りの時間を念頭に生活しようと努めているから、もう新しい布を買いたくない。手持ちをあれこれ思いめぐらすと、以前スカートに仕立てたヴィンテージのエプロンとペチコートに気づいた。これにハサミを入れた。ペチコートはかぎ針、エプロンはドロンワークを施したものだ。