昨夜、「穂高を愛した男 宮田八郎 命の映像記録」という番組を見ました。
穂高山荘の支配人をされ、昨年静岡の海で不慮の事故のため亡くなられた宮田さんが、30年ちかく撮り続けた穂高の映像が主軸でしたが、「宮田八郎という生き方」を深く考えました。
安楽な格好で見るには、申し訳なく思わず居住まいを正すような、美しくも鬼気迫る映像に息をのみました。
レスキュー隊員として多くの人命を助けつつも、助けられなかった命、天才肌の登山者仲間の相次ぐ事故死。「なぜ人は山に登るのか」を自問したといいます。
なぜ山に登るのか
生きるために、山に登る
忘れ得ない友人がいます。あっという間に若くして逝ってしまった彼女が、宮田さんの言葉に重なりました。
着物からのリメイクをやっていた頃、東京オペラシティーでのリサイタルのための服を知り合いに頼まれ、皇紀2600年を祝う振袖でドレスを作りました。
10年ほどしてそのドレスが依頼主から返され、仕舞い込んでいましたが、ある縁で知り合った歌い手さんならば着ていただけるかと思いつき、そう伝えると喜んで受け取っていただけました。
愛媛の内子座での演奏会での写真。中央のドレスです。老松の緑に映え、作り手冥利につきる感動を味わいました。
このドレスを作るとき、袖裏布に悩んでいたら、快く作製を申し出てくれたのが、件の若くして逝った友人でした。進行性の胃癌とわかって間がなく、申し出に躊躇する私を抑え、紗綾型の白絹を引き染めでやわらかにぼかし、見事な裏地を作ってくれました。
車いすでもオペラシティーに出向きたいと言っていましたが、叶いませんでした。
42歳。大島を織り、友禅を熟し日本刺繍にも長けてました。まるで早世してしまうのを、本人が見越していたかのよう。
病床でも針を持ち、大空を滑空するつがいの鳥、男の子と女の子の雪だるま、最後に二羽のウサギ。先にいく雄ウサギが後ろの雌ウサギを見遣る、なんとも優しい構図です。
この図柄を彼女は2度刺していて、写真は最初のもの。病室で刺していたのは、おそらくご主人の元に遺すもののようでした。
どう?と出来映えを問われ、
右下の朱い実が紫色になっていて、もう彼女の眼差しが冥界にあるようで、紫色がさびしいよと応えました。
そうか、、、、あぁもうダメだ、目が見えない。
それから間もなく面会謝絶になり、色替えされたのかどうかは知らないままです。
黒地に桜の花弁が舞う小袋を自身の骨入れにと作りもした彼女を、強靭な精神の持ち主と、胡乱にも私は長く理解していました。
今夏、膵臓近くに大きな影が映り、それが悪さするものであったら、これは長くないなという覚悟をもとめられる3週間を、私は味わいました。
おかげでそれについては無罪放免でしたが、その20日あまりの間思ったのが、この友人で、そうだ、針を持っていられさえすれば、時はやり過ごせると考えました。
針が自分を強く保ってくれると信じられたのです。
でも想念は、想念でしかなく、友人は最後まで強い意志の元にいたのではなく、死の恐怖をひと針ひと針ステッチしながら乗り越えていたのだと、昨夜思い知りました。
宮田八郎さんは言われました。
生きるために山に登る
瞬間、瞬間の恐怖を一歩一歩乗り越えた結果が、生きた証だということでしょうか。
早世した彼女が直面してた死の恐怖を、やっと思い遣ることができました。
彼女は怖かったからこそ、毎日針を手にしていた。
目がかすみ見えなくなるまでステッチしていた。
直径5mmのブドウの実