白村江の戦いと大野城の築造
2008年2月に入ろうとしています。早いものですね。ところで国際間争いは相変わらずで、日本においても北方領土、尖閣諸島や北朝鮮関連で火種はあります。明治以前では日本から仕掛けた以外では元寇の襲来で、対馬、壱岐含め九州北部での悲惨な経験しかありませんでした。 7世紀後半の日本の外交は重要なポイントでした。 660年に滅んだ百済は日本(倭)に、救援軍の派遣を要請し、これに斉明天皇が応じ、中大兄皇子(後の天智天皇)らを率いた軍は661年3月に那津(現在の博多港)に着き、中大兄皇子は現在の朝倉市で指揮をとりました。しかしながら、663年に白村江の戦いで唐、新羅の連合軍に完敗し、日本を防衛するために664年に水城を、665年には大宰府政庁の背後に標高410mの四王寺山(しおうじやま)に大野城を築造しました。この城は籠城と防衛が目的だったと考えられています。この四王寺山は北側に大きな谷を取り込んで、尾根線が巡っていて、馬蹄形を呈しています。この尾根と谷をつなぐように、総延長6.5kmとも8.5Kmとも言われる二重の土塁を造りました。この城は太宰府市、大野城市、宇美町にまたがり、現在では国の特別史跡に指定されています。土塁の他、城門跡、石垣、70棟あまりもの礎石建物や掘立柱建物が見つかっており、7世紀後半に造られた朝鮮式山城です。日本防衛のために造られましたが、唐、新羅の連合軍は現れず、実際に使用されることはありませんでした。その後、新羅は7世紀後に朝鮮半島を統一しました。これが、日本に攻めて来なかった重要な理由の一つだと思われます。664年に水城を築き、翌年には大野城を造りました。さらに南8kmに大野城同様な基肄城(きいじょう)を築造しました。これは正しい選択だったと思います。水城は一時的に持ちこたえるかも知れませんが、ほとんど要塞と思えない城だからです。水城に立つと藤原純友にも簡単に大宰府政庁に攻め入られたことが分かります。
最近の

大野城の南にある増長天礎石群は 10×6メートルくらいの建物があったようです。礎石の配置から、籠城等に備えて食料を納める倉庫であったと考えられています。
大宰府口城門近くの土塁
土塁の層
土塁
大宰府口城門 現在は崩れた石垣しか残っていませんが、当時は立派な門があったと言われています。
毘沙門天(太宰府口城門近くにあります)