藤原純友と大宰府政庁 | 古の里 太宰府の四季と歴史

藤原純友と大宰府政庁

いよいよ明日は11月です。厳しかった夏も去り、紅葉もどうにか見られるようになりました。現在、艶やかであったと思われる政庁の建物はすでに存在しませんが、背後の山々は約1000年前の昔とあたかも同じのようになにもかにも歴史の変遷を見据えているかのようです。大宰府政庁跡の発掘調査より、政庁は3回建て直されたことが分かっています。現在地表に見える礎石群の部分は第三期の「純友の乱」後に建てられた遺構のものです。第三期と第二期遺構の間に大量の焼土が堆積することからもからみて、941519日に藤原純友による政庁の焼き討ちがすさまじかったことが窺え知れます。書籍によっては純友を朝廷に背く、盗賊、海賊等のように極悪人に仕立て上げたものもあります。しかしながら、「平将門の乱」同様に貴族社会から武家社会に変遷する過程で生じたひずみによってこの「天慶の乱(藤原純友)」も起きたものではなかったのではしょうか。

  純友の父藤原良範が大宰小弐(現在の役職としては副長官)として赴任した頃の大宰府は、他国と接する軍事的拠点であると同時に、大陸との交易の拠点でもありました。たぶん純友は父と伴に数年は過ごしたものと思われます。その後彼によって政庁は戦場とはなりますが、そもそも藤原純友にとってこの地は思い出深い地であったところです。

 やがて小野好古らの軍勢と博多津で激戦となり、この戦いで純友軍は大敗を喫し、ほぼ壊滅状態になります。純友は小船により、逃走しましたが、620日には根拠地の日振島で伊予警固使の橘遠保に討たれてその生涯を閉じました。平将門は940年に平貞盛、藤原秀郷らにより討たれます。藤原純友は懐柔策により一時従五位下(かなりの高い官位)を授かりましたが、「平将門の乱」がおさまると朝廷は純友に対し、強攻策をとります。もう少し平将門が持ちこたえていたなら、朝廷は動けません。そうなるとさらに上の官位を授かった可能性すら出て来ます。基本的な歴史の流れは変わりません。只、教科書による藤原純友の記述が変わったかも知れません。

           観世音寺近くから岩屋城跡を望む。

 観世音寺近くにはコスモスが植えられています。今が見頃です。

                観世音寺の子院である金光寺跡

                           大宰府政庁跡


                            大宰府政庁跡


                            大宰府政庁跡

                      月山東地区官

大宰府には記録から「政所」「蔵司」等の実務を行う官衙(かんが)が18あったことが知られています。これらの官衙の多くは政庁の周辺に設けられており、発掘調査で、役所として使われたと考えられる建物が多数見つかっています。これらの建物は溝や塀で区画されており、現在、大きく7つの地区に分けられています。この官衙はそのなかの1つで、政庁の東側に隣接する「月山東地区官衙」は東西約112m、南北71mの塀で囲まれた中に、これまで9棟の掘立柱建物が確認されています。