空海と観世音寺 | 古の里 太宰府の四季と歴史

空海と観世音寺

空海と観世音寺

今年は全国的に例年になく9月になっても暑い日が続きましたが、やっと10月に入り、観世音寺の周りにもコスモスが咲くようになりました。6月に観世音寺に空海が立ち寄った話をしました。                                               空海は、密教的宇宙観に引かれ、叔父の阿刀大足や大足が仕えた恒武天皇第三の皇子に取り計らって、遣唐船で「唐」に渡り直に密教を学ぶことを決意します。空海31歳の時です。留学僧として空海は804年に最澄と共に遣唐船で入唐することになりますが、これらの過程は多くの書物で書かれていますので省略します。空海(私費留学生)は最澄(国費留学生)と違い、格下の僧であり、本当は20年間帰国することは許されませんでしたが、入唐より2年後空海は帰国することになります。私は空海はなかなかの戦略家で初めからその予定であったのではと思います。806年10月、高階遠成らの遣唐使船で帰国します。高階に唐より持ち帰ったもののリストをまとめた「御請来目録」を渡して、天皇に上奏すること願ったのでした。そのリストには経典や注釈書が461巻、おびただしい数の法具や仏画、仏像などが記されていました。私の想像の範囲内ですが、それだけでもトラック1台分はあったのではないでしょうか。また、「御請来目録」の冒頭で空海は「業務期間を欠いた罪は死をもっても償えませんが」と書いてはいますが、最澄より自分が持ってきた経典が上だと言う自負もあったものと思われます。その後の布教戦略を練っていたと思われます。空海は観世音寺に数ヶ月から3年間滞在したと言われますが、明白ではありません。観世音寺北側には東西104メートル、南北10メートル余りの僧房の建物跡が見つかりました。ここは観世音寺の僧たちの日常生活の場で、空海も『客僧房』と呼ばれた所で寝起きしていたと思われます。809年嵯峨天皇の時上京が許されますが、その間も観世音寺だけに留まることなく精力的に動き、京へも出かけていたと言われています。

 空海については多くの謎があります。渡航費用や膨大な経典、仏具も購入をどのように
捻出したのか。今日に換算すると数千万円以上は必要だったと思います。また、
入唐後1年後、やっと目的とする恵果に会い、密教の大きな二つの流れ「大日経」系と
「金剛頂経」系を学ぶことになります。その際、恵果は空海が来ることを待ち望んでいた
ようです。3ヵ月後恵果の死によって伝授は終わります。なぜ1年後であったのか。
観世音寺に留まっていた空海は最澄のアドバイスによって嵯峨天皇より許しを得て、
京に行くことができました。最澄と空海には何かの密約があったのでしょうか。
それとも最澄は空海をライバルとも考えていなかったのでしょうか。これらのことを考えると
空海は常人の数十倍のスケールを持った超スーパー人物であったことが窺えます。

観世音寺は、南大門・中門・講堂・金堂・五重の塔・鐘楼・経蔵・僧坊
などの建物が並ぶ大寺院であり、子院も周囲に多くあったそうです。

                                山門入口



698年に福岡県の粕屋郡で鋳造されたことが知られています。日本最古の梵鐘です。

東西104メートル、南北10メートル余りの建物跡が見つかりました。ここは観世音寺の僧たちの日常生活の場で、空海は『客僧房』と呼ばれた所で寝起きしていたと思われます。

観世音寺周辺に咲くコスモスです。やっと秋らしくなりました。