菅原道真の左遷と榎社 | 古の里 太宰府の四季と歴史

菅原道真の左遷と榎社

菅原道真は藤原時平との権力闘争に敗れ、901年に大宰府に大宰権帥として左遷させられました。その配所が「府の南館」で、ここに903225日(満57歳)病死するまでの約2年間ここで生活を余儀なくさせられました。大宰権帥といっても特に職務も権限もなく、飢え死にしない程度の生活費が支給され、罪人同様の扱いでした。榎社は1023年大宰大弐藤原惟憲がその御霊を弔うために浄明院を建立したのが始まりです。境内に榎の大樹があったのでいつしか榎社(えのきしゃ)もしくは榎寺(えのきでら)と呼ばれるようになりました。榎社は大宰府政庁跡から南へ徒歩15分のところにあり、現在では太宰府天満宮の末社となり、 毎年9月に行われる神幸式大祭では、太宰府天満宮から榎社まで御神輿が御神幸されます。20018月には新社殿が竣工とともに、降水時の水捌けを良くするための境内整地工事が行われました。社殿の形状は、ほぼ同形の木造建築で従来の建物より一回り大きく屋根は銅板葺きになりました。榎社の社殿の真裏には、道真のお世話をしたと伝わる“浄妙尼”を祀る小社もあります。

さて菅原道真と言えば今や学問の神様として有名ですが、平安時代には最強の怨霊として、人々を震え上がらせていました。菅原道真の没後、左遷に追い込んだ左大臣藤原時平、道真の後任で右大臣の座に就いた源光、醍醐天皇の皇太子保明親王も亡くなります。保明親王が亡くなった翌月には、祟りを恐れた朝廷は、死んだ道真を右大臣の位に復活させ、正二位を贈ります。さらに左遷したときの宣旨はみな焼き捨て、その事実を白紙に返すという念の入れようでした。しかし道真の怨霊の怒りはおさまらず、925年には、やはり時平の娘を母に持つ慶頼王もたったの5歳で死んでしまいます。さらに、天皇の居処である清涼殿が雷に襲われ、しかも高官二人が死亡するという落雷事件が起こります。このような連続的な不幸な事件は、平安朝はじまって以来のことでした。
 この事件を境に、醍醐天皇もまた体に異常を来たしてしまい、3か月後にこの世を去ります。この後も時平の長男保忠が死亡し、道真の怨霊は猛威を振るいます。このような不幸な事件がなければ「菅原道真の右大臣の位への復活」、「榎社」等もないことから、菅原道真は学問の神様と言われように有名にならなかったかもしれません。

場所:太宰府市朱雀 六丁目

 

   

東風ふかば匂ひおこせよ梅の花 あるじなしとて春を忘るな(天満宮境内


      榎社新社殿(2001年8月竣工)


    道真のお世話をしたと伝わる“浄妙尼”を祀る小社


          正面からの榎社:線路(西鉄大牟田線)が直ぐ手前まで迫っている


      境内