何はともあれ、集まるべくひとたちが集まり法要(&葬儀)が始まることになるんですが、会場に向かう途中でボクだけでなく道に迷った話が聴こえてきます(「ナビに載ってなかったゾ」なんつー耳寄りな話は取り分け大きく聴こえてくるんですよねー・・・笑)。「聴いた? 今の」――無言で、でも表情で何を言ってるのか間違いなく分かるだろう気持ちを込めて、目力で連れ合いに伝えます。彼女はすかさず視線を逸らし、無視の姿勢を貫くことを表明します(あ、そうゆー態度なのねー)。もはやこの場に至っては、ポジティブの出番はありません(でもやはり後でトイレに行ったとき迷う)。+++基本的に無宗派をウリにしている善光寺(日本において仏教の宗派が分かれる以前に建立されたかんね)ですから、僧侶の読経もチャンポンです。要するに宗派がごっちゃになって無茶苦茶なんですね。ただし、葬儀を担当した僧侶が読経に選んだ経典は、ボク的にも納得できるくらいにありがたいパートでした。とはいえ僧侶が執行する儀式に対しては、そっち方面に関してある程度体系的に学んできた身としてはツッコミどころ満載でして、「おい、それちゃうやろ!」と叫びたいことばかりでしたね。(どうにもコウにも、こんな場においても自身を俯瞰している自分がいることに気づいたわけで、長年の習慣で身についた習性――あるいはカインの印めいた呪い――のようなものを感じたりもしました。でも、そういうのもまた面白いよなぁー、と思ったことも事実です)だけど、そこは大人です(本当か?)、あれこれ僧侶の間違いを糺し、彼に真実の道を説きたいところですが(笑)、我慢することにしました。(おいらがあげた方が読経は旨いし、故人も浮かばれるぜ・・・と思いながらも――つまり、心の中で僧侶を非難しつつ――クロノス的時間は過ぎてゆきます。まあ、しゃあないね)でもね、案内係のひと(中年男性です)が、とってもいいフィトでね、その姿勢には頭が下がったし、未熟な僧侶の失点を補って余りあるものでしたから(もちろん、そんなこと思ってたのはボクだけだったでしょうけど)、法要が終わる時点でボクの気持ちが和んでいたこともまた事実です。やっぱり、直接関わってくる方々の人間性が大きな鍵なんやな・・・なんて、至極あたり前のことにも、改めて考える機会をもらったような気分でした。+++今回タイトルの「ひちひちにち」にしても「なななぬか」にしても、要するに「=49日」のことでして、この日を境にして、いわゆる「この世」から「あの世」に移行することになります(という「考え方」ですね)。この49日までのことを仏教的には「中陰(もしくは中有)」と呼んでいます。かつて「リンボ」について語った際に、中有にも触れたと記憶しています(ああ、リンク貼った記事のときは母親でしたね)。リンク先の記事で更にリンクを貼っていた記事の中で、「自己言及」なんてことを言ってましたが、まさしく今やってることがそれなんですよね。(そして自己言及はいずれ回帰して不思議の環をつくることになるでしょう・・・)中有に関してもあれこれ語ってきたつもりですが、どうやら深いところまでは語っていなかったようですね。これに関してもいずれ自作と絡めて語る機会が来ると思っています。(それとは別に、現在も並行して書いている物語のタイトルのひとつが『なななぬか』なんですよね――もしかしたら『ひちひちにち』に代えるかもしんないけど・・・笑)+++で、とにかく、その日(「49日」=「ひちひちにち」=「なななぬか」)をもって父親は、仏教的には現在の世界から新たなステージに旅立つことになります。いわば「銀河鉄道」の乗客になるわけです。つづきます。
デニム中毒者のたわごと
...
