京都は手描き京友禅と西陣織という極めて重要な服飾文化を古くから担ってきました。
特に西陣織は京友禅よりももっと歴史が古く、少なくとも600年以上以前から、現在の地で織物が生産されていたのは事実です。
当時はほとんどが織のキモノの生産でした。
今のようなキモノに対する帯の主たる生産地として栄えたのは、先の大戦の後からです。
まさに昭和40年代などはガチャ万と言われたほど利益の上がる状況で、織屋の数も正確には知りませんが、2000軒くらい在ったように思われます。
西陣という名は応仁の乱の西の陣がこの辺りに会ったということから言われている地域の通称名で、西陣という住所はどこにもありませんが、実際この辺りに織物業者が集まっているので、西陣というと帯の産地というイメージが固定しています。
忙しい頃がこの辺りを歩くとあちこちから機音がやかましいほど聞こえてきたものです。
しかし現在ではまともに生産を続けている織屋さんは50件を下回るのではないかとも言われ、西陣の中で機音が聞こえてくるところは稀です。
色々な理由もありますが、このままでは多くの複雑な織の技が消滅する危機的状況にあるのは、京友禅と同様です。
以下、西陣の数少ない良心の一人ともいえる、梅垣さんの投稿です。
>近年、和装需要の減退により西陣織、京友禅ともに絶対的な仕事量が激減しています。
永年にわたり西陣織に於いては、産地分業体制のシステムで商品製作を行なってきました。三十工程以上のスペシャリストたる職人が奥の深い専門技術を持って仕事をしています。その職人仕事をプロデュ―サーとして指揮し、商品製作することが当社のような織屋の仕事であります。
職住一体となった西陣産地「図案屋」「糸屋」「金糸屋」「箔屋」などの原料屋、「染屋」「整経屋」「綜絖屋」「紋屋」「仕立屋」などの加工屋、そして製織する「出機」を土台として織屋が成り立っています。
一部に自家工場を持つ織屋もありますが、「内機」と呼ばれる製織部門を持っているぐらいで、どんなにメジャーな織屋でも一貫生産のシステムはありません。
また、各職人工程においてもそれを支える孫職人が大勢います。たとえば「引箔」においては「こうぞ、みつまた」といった原料から作る和紙、金沢の金箔、漆、顔料などの製作者、これらの材料から「引箔」を作るいわゆる箔屋、そして箔屋が作った引箔を0.3ミリ程に裁断する職人がいます。
このように累算すれば途方もない工程に各職人の技が用いられています。
これらの職人技の集大成として「西陣帯」が存在します。たった一つの工程がなくなっても最終的な製品は製造できません。
一つの工程を維持するためにはある程度の絶対的仕事量が必要ですが、それに対応する市場が復活するとことは大変難しく思われます。また大きな矛盾なのですが昨今の不況による製品単価の低下により、「腕の良い職人」、「付加価値の高い技術を持つ職人」ほど仕事が少なくなっているという状況が存在します。そして一度途切れた技術を復活することも大変困難なのです。
以上のような状況から現在は高品質な材料を用いて、腕の良い職人技を駆使した製品を製作することが大変難しく、はっきり言って近い将来殆ど絶望的な状況にあります。<
いかがでしょうか。本当に良いものを作り続けてこられた梅垣織物さんの現場の偽らざる声です。
京友禅よりももっと西陣織の方が危ないかもしれませんね。
現実彼のところでもすでに作れない作品などが出てきております。
今度の会ではそうした作品もお見せしたいと思います。