セリフ:
写真は嫌、だって写真があったらなんか、安心しちゃうのよ。本物の私でいられるうちは、私を見て欲しいんだ。

写真が嫌いだという彼女は、ちょっと不思議な子だった。

スマホを向ければ、さっと視線を逸らす。
「なんで? 可愛いのに」と言えば、彼女は小さく笑ってこう返した。

「写真があるとね、安心しちゃうのよ。本物の私でいられるうちは、ちゃんと私を見てて欲しいの」

一瞬、意味がわからなかった。
けれど、あとになってふと気づいた。

彼女は、“記録されること”より、“見られている今”に重きを置いていた。
安心とは、ある意味で「もうその瞬間を閉じ込めた」という終わりの合図なのかもしれない。
だからこそ、今の自分を、まっすぐ見ていて欲しかったのだ。

心理学には「存在認知」という言葉がある。
人は誰かに“今ここで”見られていると感じるとき、自分の存在をもっとも強く実感する。
写真や記録は、思い出になるが、それは“過去の私”である。
けれど、彼女が欲しかったのは、**「今、この瞬間の私を、あなたの目で覚えていてほしい」**という強い願いだった。

結論はこうである。
本当に誰かを大切に思うなら、その人の“今”を見逃さないことだ。
レンズ越しではなく、目の前のその人の呼吸、声、揺れるまなざしに、ちゃんと目を向けていたい。

記録より記憶。写真より、まなざし。
彼女が伝えたかったのは、そういう“愛のかたち”だったのだ。