生活の経済学、愛と幸せを生む経済学。
私たちの生活には経済生活とよばれる面がある。
働いてお金を稼いできたり食料品などの商品を買ったりする経済的な生活をしていることだ。
また家族や家庭をまとめたり地域の人たちと上手につきあったり、また地方議会や国政選挙に投票するなどいった政治生活とよばれる面もある。
さらに文化生活といって、子どもを教育したり、ピアノを習わせたり、地域のお祭りに参加して文化的な伝統にふれたり、余暇をすごしたりするなどという文化生活というべき面もある。
今回はそのうちの経済生活の問題についてすこし話しておきたい。
多くの家庭で旦那さんが言う「誰のおかげで生活できていると思っているんだー」という問題について、整理したいと思うのだ。
どの家庭でもまた夫婦でも、夫が言う決まり文句に「誰のおかげで生活できていると思っているんだ」とか「誰のおかげで生きていけると思っているんだ」という常套句がある。
この言葉を妻や子どもが言われると、返す言葉を失い、自分の命と生活と人生も夫の給料如何に支配されていることを知る。(ただしこのような意見は半分は間違いで半分は正しい。)
そうして妻は、夫が言うことは無条件に聞き入れなければならないのだと思い、夫の判断と命令に無条件に従わざるを得ず、自分の意志を発言できないことを知ることになる。
そうして自分の意志を主張したり、自分の意志で生たりできないで、自由や人権がない女として生まれてきたことを恨むことになり、「女は損だ」「今度生まれてくるときは男に生まれたい」などと言わせることにもなっている。
子どもたちの方はといえば、家計に余裕がないことで繰り返される夫婦喧嘩と、父親が喧嘩に決着をつけるの決め言葉としていう「誰のおかげで・・・」という言葉を思い合わせて、自分のために夫婦喧嘩をして、父親は厳しい労働に耐えて一生懸命給料を稼いできてくれているのだと思い、自分が生まれてきたばかりにと、自分が生まれてきたことを申し訳ないように思わざるを得ないにうにされ、自分の命の惨めさを知ることになる。
妻は自分でも金儲けをしようとパートにでて、自分の判断で自由に使える金を得ようと決心する。
自分で自由に使えるカネがないと、自分も子どもも自分で判断を下せず、自分の考え通りに自由に生きられるず、人間的に自立した生き方ができないのだと考えさせられ、自立するのだと決心させることになる。
夫のその間違った経済学の理論の言葉で、妻も子どもの人間の尊厳と、生きる権利と、その人権を傷つけられてしまうのである。
このような問題となる、夫の「誰のおかげで生活できていると思っているんだ」という考え方は、さらにまたその意見は正しい考え方だと、妻と子どもさえもが信じていることは、同じ間違いを犯していることになるのだろう。
こういった問題を、夫婦の性愛と、親子の愛と、その幸せな家庭を作るために整理しなければならないだろう。
夫や、時には妻の方が高給取りの場合などにも妻の側が同じ事を言うことになるのだが、そのような言葉を言わせている間違った考えが生まれている原因には、嘘の経済学の理論と、それを普及している学者やマスメディアにある。またそれらによる民衆への、刷り込みと広報の力によって、民衆が悩まされている問題としてある。
夫に側の間違った考え方や主張に対しての強力な反撃のパンチは、次のよう言葉にあるだろう。
「誰のおかげで働く力が出てくると思っているんだ」、
「誰のおかげで生きる力が出てきていると思っているんだ」という言葉だ。
人間の身体を動かす活動力と、考える脳の活動力を生ませているのは、食物を摂ることで体内でエネルギーとなり人間の活動力となっているからだ。
つまりカネがあっても買い物は出来るが、品物を買ったからといって即直に食事ができるのではなく、調理をしなければ食べられないのだ。
そういった妻の炊事活動(働き)で、夫の活動力が補給充填されているし、「妻のおかげで生きることが出来ているのだ」し「妻のおかげで仕事に行け」、仕事が出来ているし、働くことが出来、給料を得ることができているのだ。
企業も、そうして生まれている夫の労働力のおかげで生産ができ、カネ儲けもできるのだ。
そうしてより正しい経済学は、夫が一日活動し労働してきた疲れは、決して贅沢ではないが安心できる食事によってエネルギーが補給され、綺麗にされた風呂や、心地良い布団によって回復されるのだろう。
決して豪華とは言えないだろう家屋や家具や生活用品などでも、妻の家事労働でなんとか整理整頓され衛生的に保たれているから、また文化的に綺麗に保たれて夫や子どもたちの安息や団らんを生むのだろうし、
妻の笑顔や子どもの笑顔によって、夫と家族に安堵のため息をつかせ、夫に明日も可愛い子どもと妻のために、父や母のために頑張ろう、頑張れるという力を生ませるのであろう。
もちろん妻と晩酌をしたり妻を抱きしめたり、夜の夫婦生活もして、男の心が和ませられ、生きる衝動や気力を生み、それらの喜びを生んでもいる。
そういった母と嫁と妻と女の家事労働の一切によって、夫の活力も生まれ、さらに子どもや老父母の活力も生まれてくるのである。
さらにそういう愛が溢れる幸せな家族と家庭全体があって、妻の活力も生まれるのだろう。
そこで女たちに愛と幸せを生み出すための「正しい経済学」を知って貰うために、さらにもう少し添えるが、夫の活力や労働力というものは、夫が子どもの時から教育され身につけてきた知識や理性(道理をもって正しく考える力)や、倫理観や道徳観や学問的科学的な価値観などによって、自分の行為や活動を律したり自力を操ることで生まれてくるものだろう。
だから広くは歴史的に生み出されてきた「日本人の器用さ」「生真面目さ」「勤勉性」「従順性」「集団性」などというものも、その労働力を生んでいる要素なのであり、労働目的や課題を実行する一切の人間能力のことを労働力というのである。
だから、正しい経済学とは、私たちの事実生活の経済学であり、あるいは愛と幸せを生む経済学であって、そのようにある労働力を「人間の抽象的労働力」とか「人間的抽象的労働力」などともいうのだ。
ある一人の人間の労働力は、それまで教育や地域や、社会と世界や歴史のありようが、その人なりに反映して生れてくるもので、夫だけでなく妻の側も、さらに子どもにも、その個人の有り様を反映した状態で、本人の労働力ともなり、活動力ともいい、活力とも能力とも言える、そういう抽象的な力を生んでいるのである。
つまり平たく実生活の言葉で言えば、全ての日本人が一定の義務教育を受けても、それが身につく量は人それぞれであるように、馬鹿は馬鹿なりの力を発揮するし、賢ければ賢い分なりの力を発揮するし、要領の善し悪しの分なりの力を発揮するし、器用不器用の違い分なりの力を発揮する、などなど、そういう働く力のことを言うのだ。
それらの個性の違いは適材適所に置きその能力を発揮させることで、社会全体の役にたっているのである。
例えば暴力と闘争が好きな者は自衛隊や警察に向いているのだし、方向を間違えればヤクザなどとなり社会の「反面教師」の役割や、社会を維持するための「裏の抑止力」などといった社会的な役目を果たすようにもなっている。(いいことだと思ってはいないが)
本当の「正しい経済学」は、実際の男女や夫婦・親子・家族の姿を示すモノで、男女と夫婦が協力し合い、結び合い、愛し合い、親子と家族の愛と幸せを結びつけ、絆を産み、幸せを作り出すものなのだ。
それに対して「誰のおかげで生活できていると思っているんだ」といわせる経済学は、夫婦を対立させ女と子どもを惨めにさせ、家族の一人一人を「自立」させてバラバラにする嘘の経済学ではないだろうか。
例えば、妻が毎日勤しむ家事は、その労働の対価と報酬を得るために、今晩作ったカレーを一皿500円で夫や子どもに売るというようなことは考えることができないだろ。
食品だけではなく掃除代は?、洗濯代は?家財道具の保守管理代は?、隣近所や地域の人々との渉外費は?、夫婦の営みの対価は???。そのような資本主義の商取引の経済原理では家族と男女と夫婦を繋げず、親子を繋げず家族の愛は生まれないだろう。
世の中には私が示す愛の経済学が広まっているのか、それとも嘘の経済学が広まっているのか、皆さんそれぞれで実際の生活の中で、生活の苦悩のなかで、判断してもらいたいと願うのだ。
現代に広まっている経済学は、おおよそカネの流れを操作し、その仕組みを作ることで、儲けをだしたり、企業や社会及び国や世界の経済状況を活性化させようとするもので、人間の姿を根底に置いて物を作り出しその価値を生み出して人々の幸せな生活や社会及び国や世界を生み出すための経済学とは異なるものだ。
現代に広まっている経済学は、いわば世界と国・社会のカネを中心据えた表層の経済学で、もう一つの経済学は、実際の人と家庭と社会・国家・世界の基層の経済学である。