寂しさの構造 2章(第三講)
そこで、言葉というものについての重要な問題をもう一つ挙げれば、「言葉の全ては、自然や社会の物事を言い表すためのもの」といっても、その自然現実界と言葉の関係のうち、主従の関係や重軽の関係からいうと自然の方が主と重であり言葉が従と軽の関係にあるということだ。
自然と言葉の関係において、自然現実界の物事を人間が示し言い表そうとして言葉を編み出してきたのだから、自然が第一義的にあって、人間自身が人間に対して自然の意味内容を理解するよう、押し付け強制している関係だといえる。
このことは真理とは何かという学術テーマにおいて、根本的な意味をもつ重要要件となっているし、次に話すような意味を含んでいる重要な問題でもある。
つまり自然と言葉の主従関係の一般的な意味から日本語についてもいうなら、日本語は日本社会と日本民族が私たち各個人に押し付けている関係にあるといえる。
これらも私たちは自覚もないし、誤解もすることになっているだろう。
というのも、言葉や日本語は、私たちや学者などの個人が自分勝手に作って、日本中の皆に押し付け学ばせているわけではなく、自分勝手に作った言葉と音では、他人には通じないのであり、誰もが民族と国や社会と歴史が作った言葉と音と意味内容に従って言葉を使い、その意味内容に従うことで共通語・共通理解となっていなければ、言葉は通じ合えないからだ。
だから言葉はそのような自分勝手が誰もできないものとしてあり、また言葉は私たち各個人の理解の度合いや主観とは別なところにあり、言葉というものが各国と各民族によって歴史的に作られ、その時代にあり、社会的にあるものなのである。
というのも私たちの誰もが、すでにある社会の途中で生まれてきて途中で死ぬのであり、それ個人の生死や知識や認識とは別なところに社会があって社会は続いていくのであり、誰がどうあろうが関係なくそれとは別なところに社会も言葉もあるのだ。
だから、言葉の意味内容についても、意味内容は誰彼個人が決めたものではなく、その民族とその歴史(*1)が作った意味内容なのだし、国民の各個人はその意味内容に従って思考し思索せざるを得ないという関係にあるのだ。
したがって言葉は、目の前の現実が示す意味内容と喰い違うと悩み(*2)という状態に陥いいて、その個人に理解されている意味内容の訂正が迫られ、民族と時代が定めた言葉の意味内容に従うよう個人に迫るのである。
(*1、ここでいう歴史とは、一国や一民族であれ他の国や民族と関係を持ってあるから、一民族や一国の歴史は結局人類史の意味でもあり、言葉の学問的普遍的な意味内容も含む意味でもある。*2、悩む状態について、その結果としてある不幸の連鎖の一々の説明は省略するが、重大な問題であることに注意を促したい。)
つまり言葉とその意味内容は、私たち個人にそのように強制しているのであり、言葉と意味内容はその民族とその歴史が作った客観体であり客観物であり、その概念であり、範疇なのである。
さらに言葉はその国の言語辞書のように、一つの言葉の意味内容はその他の多数の言葉によって説明できるようになっているが、そのように言葉がしめす意味内容の全部が他の言葉と矛盾無く繋がり、切れ目なく繋がった体系化した組織体・システムとしてあるものでもある。
(まさに、そのように「すべてに繋がっている」のである。さらにそれを広義の意味の「範疇」「イデオロギー」というのである。)
誰もが民族と国や社会と歴史が作った言葉と音と意味内容に従って言葉を使い、その意味内容に従うことで共通語・共通理解となって通じ合えるのである。
つまり理解し合うということが出来るのだし、理解でき認識が可能なのである。ここに言葉が分かり合える性質が生まれているのである。
さらにまた各個人は自分が属する社会の言葉を使うかぎり、その自分のものではない客観体としての共通言葉を使って意思伝達活動をせざるを得ないし、その言葉の意味内容の共通理解に従って思考活動や思惟活動をせざるをえないのである。
だから多くの悩みを超えた人々や人生を真剣に生きてきた年配者は、幾多の言葉の意味内容の訂正を重ねてきて、民族の共通の概念と範疇に徐々に到達していくのであり、その民族と歴史が指し示す真理に近づいていくのであり、認識を深めていくのである。
そのことを宗教的な言葉で置き換えれば、宇宙と人間社会と人の間にある「悟り」に近づいていく、ということでもある。
だからそのような客観体があることを否定する主観主義者でも、自分の言葉と意味内容はそれらの言葉の客観性と切り離せず、つまり「全ては繋がっていて」客体と客観から絶対的に離れられないのである。
したがって「間主観」などといって主観主義の理論を徹底構築するならば、虚構理論や空理論とならざるをえないのである。
言葉は、そういった性質を持つと言うか、効力というか、あるいは効果、役割、本質、とも言えるものを、言葉自体が持つのである。
このことも多くの人々が誤解しているし、その自覚も無いのだが、目の前の現実と言葉が示す意味内容が喰い違うと、悩みという状態に陥るのだから、全ての人が悩んでいるときは、自分が理解している言葉の意味内容が間違っているのか、現実を間違って見ているのかの、そのどちらかが原因だし、あるいはその両方が原因なのである。
さらに悩みという状態が進行すると葛藤や苦悩と呼ばれる段階になり、さらに進捗すると精神を傷付けるものへと拡大さされる。
(これは悩みなどを心理として捉える心理学の理解や説明、理論、などとは違う見方であり解釈である点に注意していただきたい。また現代の学問理論の多くが主観主義を主張するものである点にも注意していただきたい。)
こうして、民族と歴史が決めている言葉と意味内容に、全ての人が従うように、全ての人と人類に強制するものとして言葉があるのである。
話がわき道に入るようだが、このように人々が言葉を活用して考えたり悩んでいるということは、また私たちの誰か個人が悩むということは、社会が決めた言葉と意味内容を理解している者もいるし、理解できていない者もいることを意味していて、言葉とその意味内容が人々の共通認識になっていないことのもう一つの実証ともなっているだろう。
これらが言葉が解らないものであり同時に解るものであるという相反する二重性が生まれている原理なのである。
学者やマスコミなどで「価値観の多様化」をいい、ある一つの言葉の意味内容を各自の主観ごとに様々に理解することを当然視する風潮が社会に広がっているが、これも、私たちの間あだで言葉と意味内容と気持ちや心が通じ合えない原因ともなっている。
(ただし民主主義の精神として「価値観の多様化」を承認することとは意味が違い、同列視してはならないことに注意を促しておく。それは民主主義という言葉が少数者の意見を大切にする原理と精神だという意味内容を錯誤理解しているための、錯誤の拡張問題としてあることである。)
次回続く。