寂しさの構造 2章(第二講)
これから話す以下の話は、1回目の話の続きです。
前回の話では、寂しさを生む原因として下のように5つ挙げた。
1、言葉の問題がある。
2、言葉を連ねてある考え方の問題がある。
3、社会の問題がある。
4、時代の問題がある。
5、各個人が抱える個別の問題がある。
今回から、1、の言葉の問題を検討したい。
「検討する」といってもどんな問題であれ、ある一つの問題は様々な用件に繋がっているので全部を説明することはできない。いいや正しくいえば、「一つの問題はすべてに繋がっている」ので、その全部を説明することはできない。とくにこのようなネット世界のことだから、さらにそのうちでもブログのことだから、ほどほどの検討となる。まずは、このことに注意を促しておく。
さて、私たちのなかには、自身が使っている言葉というものについて、様々な誤解がある。その誤解の幾つかをこれから示していこうと思うが、そのうちでもまず上げるべき中心的な問題は、「言葉は一定程度現実を表せるが、全てを言い表せるものではない。」ということにある。むしろ言い表せていない場合の方が多いいのだが、多くの人々にその自覚がなく言い表わせているかのような勘違いをしている。その勘違いや錯覚が現実を見られず、現実を示せず、その現実や実態を実感できない空虚感や寂しさを産んでいる原因となっているのである。
実は言葉の全ては、自然や社会の物事を言い表すためのものだが、その言葉は宇宙を含めた自然や社会や、そこに生きている人や、それらすべての歴史といった現実界*の実態を示せるものではないし、示してはいないのである。
(*注 これから、自然とか自然界、現実界などという言葉を使うことになるが、人や社会は、地球上に存在し得るのだから、まったそれらは宇宙にあるのだから、それらも含めての意味内容であると理解願いたい。)
それを解りやすく例えて、「花子さん」という個人を示す固有・個人名詞を取ってみよう。現実に生きている「花子さん」は、1年前の「花子さん」と1年後の「花子さん」では、何かが違っているはずだろう。毎日みるテレビや新聞などの情報から何かを学んでいるから知識は日々変わっているだろうし、好き嫌いなり年齢なり体形なり、生活環境なりが違っているはずだが、しかし「花子」という名詞・言葉は、1年前の「花子さん」のそれらを示していないし、一年後の「花子さん」のそれらも示していないのである。恋人ができたとか失恋したとか、悩みが増えただとか解決しただとか、様々が必ず違っていて、同じ人間ではないはずなのだ。
実は、「花子」という個人を示す名詞・言葉は、それら「花子さん」の具体的なものは何も示してはいないだろう。ただそういった「花子」という人がいることだけを示しているだけの抽象的なものなのだ。つまり言葉自体が抽象的なのである。
そこを人々は勘違いして、「言葉は分りやすいものだ」「具体的なものを表している簡単なものだ」と錯覚したり決め付けたりしているわけだ。これを読むあなたが「花子」を自分の名前に置き換えて今の自分と1年前、10年前、20年前の自分のそれらを挙げてみたり、「自分らしさ」を挙げてみたりすると、すぐさま私の話が事実であることを理解できるだろう。
自分の名前や「花子」という名詞だけではない。言葉の一切が、宇宙も地球も空も雲も大地も海も、世界、社会、人、愛、幸、時間、空間、数、「正しい」などなど、辞書にある言葉の何もかも全部の言葉が抽象的なもので、具体的なものを示せないし、示してはいないのである。
したがって言葉は、他と分ける名札として、音声や名詞を付けただけのものなのだ。それを言語の措定(仮定していること)とか措定性、措定的だとか言い習わしていて、その措定性は言葉の性質として科学的学問的な事実として見定まった常識となっているのである。
そもそも言葉は、現実界の自然などの全ての物事を写そうとしてあるのだが、いくら言葉で写してコピーしても、またコピーできたとしても、コピー自体が本物そのものではなく模像物でしかないから、本物の姿の全てを表してはいないのである。実証のために他の例を挙げれば、言葉は写真やビデオのような映像ではないことそのことが、言葉では実態やモノそのものを表せていないことの実証になっているだろう。
私たちは、そのような現実界のコピーである言葉を聞いたり、また言葉で話し合って、互にうなずき合ったりして、互いに理解しあえていると思てるのだが、 それは双方が実態ではないコピーを集めて自分なりにおおよそを理解しているだけであって、100%の共通の認識にはなっていないのだ。
こうして私たちは、互いの言葉を勘違することになっているのである。それが近しい関係にある恋人同士でも夫婦や家族でも、100%の共通理解になっているわけではないのだ。多くの人々にその自覚がなく、言葉は事実を言い表せて、互いの共通認識ができて、気持ちや心が通じ合えているかのような勘違いとなるのである。
その勘違いし錯覚していることが、現実を見られず、実態を実感できない空虚感や寂しさを産んでいる原因なのであり、その結果として互いに誤解が生まれ、決め付けへと進み喧嘩へと拡大*することにもなっているのである。(*たとえば夫婦の喧嘩は、やがて離婚へと「拡大」「拡張」し、子供への悪影響と心の負担や傷へと「拡散」していく。全てはそのように繋がっているので、そのような不幸の連鎖の一々の説明はここでは省略する。それらは他のブログを見てもらえれば、参考にできるだろう。)
次回続く。