1978年から1988年まで浦添市勢理客に大きいローラースケートリンクがありました。今の国立劇場おきなわの近くですね。浦添には親戚があったので、沖縄に行くと必ず行って踊りまくっていました。(踊る?)と思う方もいるかもしれませんが、たぶんここは日本のローラーディスコ発祥の地だと思います。ミュージカルのスターライトエクスプレス日本公演のずーっと前、光GENJIがデビューするずーっと前のことです。(日本の!)とは言っても来場者の半分くらいはアメリカ人、アメリカの文化をいち早く取り入れ、米軍の兵隊や家族の来場を見込んだのでしょう。

そんなこともあり、雰囲気はサイコーでした。アメリカ人がローラー履いて踊りだすと、メチャメチャ上手いし、ノリはいいし、楽しいし。

一緒に踊っていると自分もうまくなった気がして(実際、恥ずかしがり屋の私がローラー履いて踊ることに抵抗がなくなりました)本当に楽しい時間を過ごしました。幸い以前からフィギアスケートをかじっていたので、スケート靴を履いて複雑な動きをすることには慣れていました。

スケートリンク自体はかなり広く、DJも本格的、照明やライトも大箱ディスコ顔負けの設備でした。

本格的に盛り上がるのは7時から8時過ぎ、そのころからアメリカ人の割合が増えていき、夕方から滑っていた子供たちも巻き込んでフィーバー(昔の話なので!(^^)!)していました。大人たちがトレインを作って滑り出すと子供達も後ろにつながり、長―いトレインが2つも3つも出来て、皆で同じステップを踏みながらリンクを占領していました。さらにのってくるとトレインはリンクの外の通路に出たり、またリンクに戻ったりして本当に楽しい時間を過ごすことができました。

そしてある日沖縄に行ってみたら、那覇ローラーは無くなっていました。

 

それから10年位経ってから、私はそのころの夢のような世界が忘れられず、シューズ(ローラーのフィギュアシューズ)を買って後楽園でローラーダンスのレッスンに毎週通っていました。50過ぎのオジサンが若い女の子に交じってレッスンをしているのだから、きっと女の子目当てで来ていると思われたに違いありません。

先生は、東京ボンバーズの選手を中心にしたインストラクターでしたが、インストラクターの 植木 亘 さんに那覇ローラーの話をしたら、当然のことながら何回も行っていたようでした。

その先生たちは、光GENJIのインストラクターもしていたので、紅白歌合戦に光GENJIが出たときにバックで踊っていました。

 

後楽園では沖縄の頃はできなかったステップもできるようになり、それなりに楽しかったのですが、那覇ローラーのような盛り上がりを体験することはできませんでした。

今ではローラー履いて踊れる場所も無くなってしまい、思い出だけが心の中で不完全燃焼しています。