橋下陣営が敗れ、官邸もさぞ落胆しているだろうが、あらかじめ敗けても勝っても自民党が悪者にならないような仕組みにしておいた点に、改めて狡猾さを感じた。
しかし、安倍政権の暴走は止まらないし、今の構造だとなかなか止められまい。
何故、
この国ではこんなにも長い間、問題だらけの自民党が支持され続けているのか、そして何故安倍晋三のような人物が総理の地位に居続けられるのか。
そのことを考えるとき、
やはり「国民の政治への関心度」や「政治への向き合いかた」という問題が、その根っこに深く存在していることは、否定できない事実だ。
つまり、私達の側に大きな責任がある。
日本では、日常生活やその会話のなかで他者と政治議論を行うのは、タブーとまではいかないが、「厄介なこと」「ちょっと面倒なもの」として避けられがちだ。
少なくとも、ポピュラーなことではない。
ここで私達は大事なチャンスを失っている。
対照的に、海外、こと欧米では、「年齢」や「宗教」に関する話題はマナーとして忌避されるのに対し、「政治・経済」に関する知識やディスカッション能力を身に付けておくことは、社交上だけでなく日常レベルにおいても必須マター。
ティーン・エイジャーも確固とした意見を持っている。だから、突然インタビューを受けたとしても、「何故なら」を省かない、切れ味のよい返答が必ず返って来る。
カフェやpubで友人らと政治討論をしている時に、隣席のひとなんかが飛び入り参加してきて、皆でわいわい意見をぶつけ合う。凄く刺激的で楽しい。
これもよくある風景。
しかし、日本では皆無といっていい。
何故だろう。
意思・意見を常に明確にしておかねばならないという欧米の文化的背景、言語システムの影響も大きいだろうが、幼い頃から家庭内でも政治に関する討論や意見のやり取りを重ねて育つため、彼らはごく自然にディスカッション・スキルを身に付けている。
自分たちの未来がかかっている政治への向き合いかたも、真剣だ。
そしてそれが、当たり前。
最近、改憲問題について東大生にインタビューを行っている様子を見た。
大半が、
「やっぱり必要なんじゃないですかね」
「ちょっと怖い気はします」
・・・こんな感じでがっかりした。
優秀とされているひとたちの思考から「何故そう思うのか」という最も重要な論拠がすっぽり抜け落ちているのだから。
安倍政権を誕生・維持させてしまった遠因には、やはり脈々と受け継がれて来た「長いものには巻かれろ」という国民性だけでなく、「政治議論を可能とする能力の欠如」「受け身で平気」「消極性」などというものがあるように思える。
Twitterやblogを見ていると、非常にいい意見、鋭い視点を持つひとが、本当に沢山いることがよく分かる。
けれど、次第に意見を同じくする人達との交流のみ盛んになり固まっていってしまう、という残念な側面・傾向もある。
(勿論、力を合わせることも大事だし、安倍支持層に見られる「理論的な意見展開が苦手」「激昂し決裂で終わりがち」という性質ゆえに、健全で冷静な意見交換がそもそも成り立ち難い、という背景もそこにはあると思う)
これだけ沢山のひとが、色んなことをしっかり見ていて、凄くいい意見を持っているのに、それがなかなか表に出ていかないのは、返すがえすも惜しいことだ。
ひとびとの声が反映され難く、政治がなかなか変わらない理由。
そのひとつに挙げたいのは、意見が異なる民衆間の「溝」を越え、往き来するための「手段」、つまりディスカッション能力というツールの育成を無言のうちに抑圧し、討論の場を奪って来た、日本社会の在り方。
個人的な印象だが、日本では、口頭での政治議論は圧倒的にしづらい。
例え相手が気兼ねの要らない友人でも、やはり気を遣う。
同僚なら尚更だ。
話題を持ち出せたとしても、相手が異なる意見の側に立っていることを察した段階で、空気を読んでやめてしまうことも多々あるだろう。
学生時代も(私のいた環境がそうだっただけかもしれないが)、政治の話題を出すと、「どうして今ここでそんなシリアスな話題出すかな~」というかの様に、その場が白けるという傾向があった。
これでは政府の思う壺。
海外では逆である。
意見がなくては話にならない。
もし視点が違うひとがいたら
「どうしてそう思うの?」
と面白がられ、更に議論が深まり、白熱していく。
意見が異なっても、感情に齟齬はきたさない。
人間は一人一人違うのだから、意見は違っていて当たり前。
だから、議論が面白くなる。
安倍政権を君臨・暴走させているのは、安倍信者の力だけではない。
傍観者・諦観者・受け身を決め込むひとびとにも責任はある。
二度とこうした政権を産み出さないためにも、安倍政権のもっともっと先のことを考える必要がある。
私達に出来ることのひとつは、日常の場から、ディスカッション能力を鍛え、討論の機会を増やしてゆく努力かもしれない。
議論を臆さない姿勢があれば、少しずつでも社会は変えられる。
その姿勢が普遍的になれば、「こいつらは決して盲目ではない」と、政治家は怯え始めるだろう。
まずは家庭で、5分でいいから政治について話し合う時間を持つ。
小さいお子さんや思春期のお子さんがいるなら、尚更大事なことだと思う。
どんなに拙い意見でも、真面目に耳を傾ける。
よい点や面白い点を見つけて誉める。
安心して意見を交換できる場を持った子供達からは「意見を発信する」ということに対する抵抗感が減って行き、家の外でも自信を持って議論を行えるようになる。
兄弟や、彼氏や彼女、友人にも意見をぶつけてみる。
返ってきた意見に対し
「どうしてそう思うのか」
と好奇心を抱いて根拠を尋ねることで、相手も考えざるを得なくなる。
そこから議論が少しずつ発展して行く。
気を付けるべきことは、相手の意見を自分側に誘導するようなかたちでの議論は避けるということ。
話者が対等であってこそ、より建設的な意見が出て来るからだ。
祖父や父は、何故か私が小さな頃から政治的意見を求めてきたり、大人達の議論の場に参加させたりしてくれたのだが、そのことを今になって感謝している。
どんなに幼いこと、浅い意見しか言えなくても、決して馬鹿にされることはなかった。
凡庸ながらも、海外で気後れせず、沢山のひとと議論が出来たのは、そのお蔭かもしれない。
「どうしてそう思うか、教えてくれない?」
あの言葉は、素敵な魔法だ。
意見をどんどん発信出来るような次世代育成や、討論の場、思考停止に陥らない社会造り。
そうした小さな、日常レベルでの努力が、未来の社会を動かし、安倍の暴挙や再来を阻止する一助になるのではないだろうか。
