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しおみ孝也と銀河の会

シルバー世代よ、誇りを捨てるな!

若者たちよ、希望を捨てるな!

「具体的」重要な言葉なので2回使いました

1、 選挙準備・選挙闘争の基本方針は、ほぼ完璧とは言えないまでも、革命的議会主義の原則に則ったもので、まったく正しかった。
 
 本年二月14日を皮切りに発表されて行った<三つのマニフェスト>はみんな、事務局全体が承認するところであり、「共産党」の「自共対決時代」などのエセ文句など、足元にも寄せ付けない革命的マルクス主義に立脚する超原則的な主張であった。
 
 いまや、伝説化している1960年代のブント系指導者にして、≪元赤軍派議長≫という経歴の人物が、何故に、破天荒ながら、選挙に立候補するかを説明したりするものであった。
 
 この三つのマニフェスト、態度表明を「銀河の会」は三つとも支持、承認したのであった。
 
 このマニフェスト3本は以下のような文脈で、作成されて行った。、

★ 第1番目の2月14日の集会で発表された最初のマニフェストであり、塩見自らが書いたものであった。このNo1文章を土台にして、No2、No3は積み上げられてゆく形で、次々に展開されて行った。

 この点で、三つのマニフェストは塩見以外の事務局では、誰にとっても、不可視の裡にあったものの、それは、塩見の革命的マルクス主義世界観や綱領的見地に忠実に立脚する(既に、この綱領的観点は公表されています。)モノであった。

★ No1マニフェストの説明。出馬の動機を鮮明にしていること。シルバー問題に警鐘を鳴らし、革命的労働運動の創出の必要性の観点からアッピールしたものであった。それは、決して、「市民派」に呼びかけるものではなかった。労働者階級に、呼びける・ステイタス・パラダイムから攻勢されていた。

 「攻勢的」というのは、70年闘争に於ける呼びかけ、が、常に「連合赤軍事件」と、重ねられて、、味噌と糞を一緒くたにして、論じようとするマスコミの仕掛によって、塩見像が、くすんだ形で論じられるのに対して、これを、真正面から覆して行く、論調で展開し、赤軍派を正面から擁護してゆく意識性を持たせる、ということであった。

 70年闘争に於ける前段階蜂起闘争が、日本の階級闘争、特に戦後階級闘争において、超破格的位置を占めていること。「元赤軍派議長」という通称は、まったく、名誉ある通称であることを、積極的に主張するものであった。

 この、視座から、シルバー問題を、清瀬自公政権、渋谷金太郎政権と時の政府権力、安倍政権と真っ向から闘う「社会政治闘争」観点を、鮮明に訴えてゆくものであった。この観点は「革命バカ一代、駐車場日記」の<終章>で既に鮮明にしているものであった。

★ No2マニフェストは、それが、それがどのような歴史的経緯から誕生しているかを攻勢的に説明している。

 すなわち、ブント第7回大会路線→赤軍派「過渡期世界論、世界(同時)革命」路線を、<プチブル革命主義をプロレタリア革命主義へ>、止揚して継承していること鮮明にして行っていること。 いわゆる、「元赤軍派議長」「非転向獄中20年」を、積極的宣伝文句として、意識的に使ったこと。他面では、塩見が獄中20年の中で、又出獄後20数年、マルクス主義の原則を守りつつ、自己否定・反省し続けて来たこといること。反省しつつ、マルクス主義の原則を現実の政治世界において、しっかりと守りぬ抜きつつ、これを運用・発展させて来ている旨を主張していること。スターリン主義の<連合赤軍党>とは混同されてはならないことも、説明していること。

 連合赤軍「新党」は、永田や川島が毛沢東思想を掲げながら、この思想がスターリン思想を「世界革命の放棄」「一国社会社会主義建設可能論」で肯定し、「世界の労働者に、≪ソ連≫「社会主義建設」の奉仕を要求し、それに反対する人々に、指導者、スターリンの≪神格化≫個人崇拝を強い、革命家の≪同志殺≫し、≪粛清≫として、肯定することを積極的に推進していることを肯定している点で、新左翼反スターリン主義を履がさんとするものであった。

 森や花園、(松平)は「同志殺し」を行った、永田・川島の「同志殺し」を肯定し、花園・松平は赤軍派を批判し、「ブント運動を≪現実性≫がない」、清算・脱党し、反米愛国路線を掲げ、川島たちと合流した。

 これが、野合「新党」の全体像・本質である。

 03のマニフェストの基調も、塩見独自のイディオロギー、塩見世界観、綱領的見地の立場、観点、方法を清瀬地域政治の変革の分野、選挙闘争に運用されたものとして書かれたものである。塩見のプロフィールを紹介し、幅広いブント系知識人や真の民族派パトリオット或いは革命的実践家の間で、幅広く沢山の推薦人を確保することに成功していった。
 
 極めて独自、ユニークなインパクションを強く与えつつも余人には、その意義は直感的にしか把握出来ないものであった。だが、にも関わらず、科学的検証にには、十分に耐えうる、文字通り、革命的なものでったが、故に、誰も正面からは、批判できなかったのである。

 言い換えれば、この三つのマニフェストは世界・日本のプロレタリアートを中心とする<世界民衆共同体創出>を目指す<プロレたリア独裁>を実行して行かんとする大志によって貫かれ、構成されたものであり、日本・世界の≪革命的第3極潮流≫≪世界(同時)革命≫潮流輩出・創出の要求を前面に押し出して行くものであった。。

2、 我々は、「議会主義平和革命」を徹底的に批判・否定し、もっとも原則的な、マルクス が「ゴータ綱領批判」で、展開した、「過渡期社会(過渡期世界)」の基本原則・基本路線に則って、プロレタリア独裁政治・革命的議会主義の見地を実行していった。

 それは資本主義の原理的・原則的批判と資本主義の第3段階、現代資本主義としての「新自由主義」「グローバリズム金融独占資本主義」の批判を基本ベースに、労働者階級の立場に立って、資本主義賃金奴隷制の暴露・批判、安倍・渋谷の全国・地域政権の徹底した批判・暴露の宣伝煽動を基本方針とするするものであった。

 我々は、選挙準備期・選挙中、徹底的に実行した、と言い切れる。

 この点で、我々は、選挙で当選はしなかったが、319名の確固たる支持者を獲得し、この選挙に革命的議会主義を固持、貫徹して行った訳である。

 この点で、選挙闘争はこれまでの日本の選挙・議会闘争の歴史において、独自の歴史的地歩を強烈なインパクションを残しつつ、敢行して行ったと言い切れます。

 つまり、従来の「受け皿」論の根本的弱点、限界を、「受け皿は革命的左翼自身が、立候補することによって、<受け皿>となるべき」と言う見地を実行して見せた、と言うことである。

3、 我々は、清瀬市議選を遂行して行く点では、組織方針は塩見のイディオロギーの下に完全に統率はされてはいたものの、組織過程としては、<寄せ集め軍団>であり、事務局の仲間達は部分的な改良主義や体制内市民主義を内包し、当選するには、「のぼりや腕章」を「赤ではなく黄色にせよ」、とかいった、飛びっきりの大衆迎合の極、ブルジョア議会政治、当選自身を自己目的化するする主張するような無原則を平気で言うような輩も飛び出してきた。

 当選だけを目標にしたら、こういう主張も飛び出してくるのは、当然である。言い換えれば、選挙当選のために、塩見は転向せよ、という試みである。これこそ、ブルジョア議会主義であり、それ以外に命名仕様もないものである。

 このような、とんでもないギグシャクを伴うものであったことは、最初から承知のこととして捉えていたものの、そんな矛盾が出てきた際は、塩見のヘゲモニーで、そのつど毎に、解決してゆく事務局の黙契に従って、塩見・事務局は的確に処理していった。

 僕は、12月20日以来の集まりを皮切りに、塩見の指揮、統率を認めないのであるなら「銀河の会」「事務局」から去るべきことを、事務局会議やその他の集まりの度ごとに、その冒頭において、態度度表明してきた。

 確認したことを、公然と打ち捨てる分子にには、断固たる「絶縁宣言」をやり、又実践をやらず、後戻り志向しか出来ない「おしゃべりの総括に耽ろう」とする輩には、会議出席を促さない措置もとっていった。

 このようにして、塩見の「革命的議会主義」を公然と否定する純然たる社民分子が、先ず姿を消していった。

 この次の段階で、建前上は「塩見支持」「塩見統率」を表明しつつも、実質は塩見が「議会主義」に転落する」ことを願ったり、途中で「塩見が、自分から投げだして行くよう」仕向けて行く、「塩見の腰砕け路線を狙う」ような陰ぴな、サボタージュの風潮も暫く続いたのである。

 しかし、2月21日の第1回選管説明会では幾人もの仲間が協力してくれることともなり、これが、第二回の3月21日の立候補者審査会に続いてゆくに及んで、その前に供託金も納められるに及んで、もはや、「銀河の会(事務局)」は、具体的にひとり一人が、傍観したり、サボタージュして、塩見の足を引っ張る態度を止めざるを得なくなってゆく。選挙の具体的実務を担わざるを得なくなって行きます。

 こうして、2・26「見沢知廉を偲ぶ会」「銀河の会の会」ののぼり購入、2・28「清瀬<週間金曜日>」読書会主催の「「幸徳秋水事件」講演会への参加、、3・8「袴田巌さん無罪放免」集会への参加、或いは、清瀬シルバーセンターの展示会へのビラ入れなどが、行われていった。

 こうして、選挙準備の節目、節目毎に、誰も、建前を否定することは出来ないが故に、一時的ではあるにせよ、協力してくれる人々が「一肌脱ごう」と飛び出して来たりもしたのである。

 選挙事務所が設営され、選挙公示の直前の4月初旬の追い込みに入ってゆく過程で、地区分担をしつつのチラシの全地区へのポスティング――それは、主として団地・アパートをターゲットとしていたが――が軌道に乗り始め、地区毎の特徴も分析し、その対応も議論・実行されて行った。朝日新聞への折込みも成された。

 「会」の組織方針の対象は以下であった。

a、 クレア・シルバー会員のオルグや全般のシルバー世代のオルグ。
b、 清瀬シルバーセンターや都市開発の批判、これを大本営として仕切る渋谷金太郎自民党市政の批判。
c、 清瀬革新派知識人・文化人のオルグ。
d、清瀬市の僻地、最底辺部である「食料難民」らを輩出する、野塩・下里地域への工作を重点化する。
 などであった。

 塩見は、このことに加え、下清戸、旭丘団地や駅前元町の塩見の生活圏で日常不断に接触する人々(セブンイレブンやファミリーマート、牛丼屋、病院、理髪屋や銭湯、ドラッグ、レストラン、マクドナルド)と対話を続け、応援者になってもらう工作を行った。これは、極めて効果的な力となっていった。
 
 この過程で、あまりにも組織者がいないこと、組織者が塩見一人である、ことを痛感せざるを得なかった。又、適宜、宣伝・煽動の武器として使われるチラシを作る印刷体制がないこと、も痛感せざるを得ませんでした。

 ポスティングが工作活動の基本ベースであることは、自覚され、熱心なS君のようなポスティングのプロも出てきた。

 又、事務所を泊り込んで管理する助っ人の仕事請負人も飛び入りでやって来たりした。

 5年ほど前、清瀬欅ホール工事で重大災害に出遭い、二人の仲間は死亡し、自分自身も重態に陥った、元とび職の親方もやってきた。彼は、労働災害に遭い、災害補償から見放され、苦闘した居たのである。この親方は即座に「会」の仲間に加わったりした。クレア駐車場の仲間が訪ねて来たり、不在で会えなかったが、事務所に社会事業大学の学生が訪ねてくるような事態も生まれた。

 選挙管理委員会との折衝、実務的な処理を几帳面に果たすS君のような、いまだ「過渡期世界論ー世界同時革命」が理解できてなく、市民主義の枠内にとどまっている限界を有しているものの、よき意味で、クールな実務をこなす事務方も登場して行った。

 この、ダイナミックな運動の進展の中で、裏腹なかたちとして、活動家事務局の苦闘や生活状態など知らず、土日だけやって来て、あれこれ頓珍漢な指示を出したりする官僚も姿を現して行くこととなった。アル中故に、自己コントロールが効かず、グチッポク何の脈絡もなく,酔っ払って、人々をなじり、人々に文句をつけ、その度毎にに、みんなと衝突し、みんなの顰蹙を買うような、我が会にあるまじき小官僚も馬脚を現わして行くこととなった。

 この、ある人物の官僚主義が度し難いものであることは、25日にマサカリさんの公然たる批判で、明瞭に暴露された。

 19日の公示までに宣伝カーは整い、選挙期間中のローテーションも某氏を軸に組まれていった。朝7時から、8時過ぎまでの、清瀬労働者の都心へ出勤時、この1万から2万人の人々に対して、各政党・無所属の人々の駅前回廊での街宣活動は、一段と激しさをまして行った。

 それに、塩見らは、食い下がって、自民党、共産党と対決しつつ、ユニークで、ダイナミックな宣伝・煽動戦を展開して行ったのである。

 終盤戦の追い込み過程で、世界・日本の<プロレタリア独裁政治>を、その<寄せ集め性>を残し続けてはいたものの、「獄中非転向20年ののぼりがたなびき、チェ・ゲバラの写真やキューバ革命、フィデル・カストロの賛美の文章や某女性の描いた「貴方は革命家ではない」と日和見主義を糾弾する世界(同時)革命を追求するの漫画・イラスト・写真が事務所に張り出され、選挙街宣でも、風靡して行った。パレスチナ旗も事務所の壁に張り出されていった。

 山本さんの漫画も氏の了承の下、利用させてもらうこととなりました。

 選挙戦終了時の25日は、雨宮さん、鈴木さん、平野さん、ロックシンガーの峻ちゃんらも来てくれ、回廊や駅前ロータリーを占拠したし、夜は、駅前広場をデモして回ることともなった。

 IGさんも、埼玉からやって来くれ、理路整然たる演説をやったり、ロフト・イベントでいつも連帯してくれている仲間達もやってきました。

 我ワレの選挙参謀である、森氏は惜しみなく、指導力を発揮してくださった。

 選挙期間中一週間、<革命的第3極>の思想性、感性は如何なく発露・顕在化させていった、と言える。

 選挙期間中の一週間、ドンドンその塩見思想の政治の姿が顕わになり、塩見達が何者であるかを有権者にインスピレ―ションせしめて行ったのである。

 これまで、示したように改良主義や体制内市民主義が、部分的に頭をもたげたりもしたが、僕の私生活関係でも、指導者を肉体的・政治的に危機に追い込むようなテロまがいの行為も産まれたりもしたが、<指導者>・<統領>の塩見の卓抜なるイディオロギ―と自制的な指導ヘゲモニーの下、選挙期間中の一週間、ドンドンその塩見思想の政治の姿を顕わにに、塩見達が何者であるかを有権者にインスピレ―ションセシメテ行ったのである。

<指導者>・<統領>の塩見の卓抜なるるイディオロギ―と指導ヘゲモニーの下、その度ごとに、冷静にそれは克服されて行った、という事である。