東京地裁で判決ミスがあり、私ではない別人の偽物のドライブレコーダーが採用され、傷の位置が変えられていて、傷が警察官達が来た時よりも増えていて、クオーターパネルは傷が写ってない写真1枚だけで傷があるかどうか分からないのに傷の修理代を請求される。ここまであっても上告が棄却されたとなれば、もう何が起きても勝てることはできない。
しかし、今回裁判に関わった者たちは死ぬ時に走馬灯のように人生が流れる映像で必ずこの裁判での自分が行った不正判決を見ることになるだろう。そして良心の呵責に苛まれ、苦しんで死ぬことだろう。即ち、【成仏はしないということだ。】
兎に角、負けは負けだ。賠償金20万強、月々払える分だけ払って行きたい。
やはり弁護士無しでの裁判は駄目だった。特に東京地裁の裁判官の、『弁護士もいない生活保護者がここで何しに来たのか。』と冷たく壇上から見下す目、私に発した無機質な言葉、姿が忘れられない。人種差別を受ける黒人たちは、店に入ってきたらこういう目で白人たちから見られるんじゃないかな、と、彼らの気持ちを体験したかもしれない。
兎に角酷い裁判だったが、裁判官が無能だということ、また、思っている以上に感情的に判決をしているということに驚いている。そしてそのような正邪より感情やメンツ優先の裁判になっている【根本的な原因が戦争犯罪人である天皇が最高裁判長官の任命許可を与えているという矛盾から来ること】を私は見抜いた。
今回も上告を通せば判決ミスをした地方裁判長のメンツを汚してしまうからであることは明白である。
即ち、正しいかどうかではなく、自分たち裁判官のメンツを維持することが何よりも優先されるのだ。ということは、それだけ自分たちに自信がないということに他ならない。即ち、裁判官が入って来た時、立って迎えなければならない裁判官たちは自分たちと能力的に何の変わりのない普通の人間たち、ということだ。だからこそ形式を正邪より優先しているのだ。
しかし、それにより不当に負けた方は人生が変わることになるのでこれは深刻な問題をこの国の裁判は抱えている。
最後に【裁判とは弱者が強者に対等に戦える唯一の場である。従って、それを裁く裁判官は、常に、自分の天秤が天から見て水平になっているかどうかを常に確認しながら裁判をしなければならない。】という言葉を、日本の裁判官諸君たちに送る。