南京大虐殺 揚子江 | リベラルブログ・生活保護者の色々な記事

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>>【白骨化
 人間の白骨死体(埋葬されたもの)
 白骨化(はっこつか)とは、硬い骨を持つ脊椎動物の死体が長期間放置され、腐食や風化をした結果、皮膚や筋肉、内臓などの組織の大半が抜け落ち、ほとんど骨格だけが残された状態のことである。海などの塩分濃度の高い水の中では白骨化が急速に進む。】
 >>陸上なら骨は何十年も残るだろうが、揚子江の流した場合、白骨した骨は川の流れで石や岩に当たり粉々になる。また形状を留めていても、50年経てば海に流されて見つけ出すことはできない。従って「資料の信憑性で議論」は死体を見つけることができない上、不可能ということになる。
 あと外国人が揚子江の大量殺害を目撃して本国に打電している。
『シカゴ・デイリー・ニュース』一九三七年十二月十五日
A・T・ステイール
<南京(米艦オアフ号より)十二月十五日>
南京の包囲と攻略を最もふさわしい言葉で表現するならば、"地獄の四日間″ということになろう。首都攻撃が始まってから南京を離れる外国人の第一陣として、私は米艦オアフ号に乗船したところである。南京を離れるとき、われわれ一行が最後に目撃したものは、河岸近くの城壁を背にして三〇〇人の中国人の一群を整然と処刑している光景であった。そこにはすでに膝がうずまるほど死体が積まれていた。
それはこの数日間の狂気の南京を象徴する情景であった。
(「南京事件資料集1 アメリカ関係資料編」P465-P466)




『「浅羽町史」 資料編三 近現代』 より

300 戦場からの手紙(3) 南京虐殺 昭13.1

浅羽町教育委員会所蔵

 (略)

 其の町に南京政府、敵様が居たる兵営も有り、海軍部も有って支那軍も相当常に軍事教練をして居た事が思われるよ。自分等の居る所は此の城外で有る。城外でも揚子江の沿岸で中国銀行、家は五階で有るが三階までは焼けて居る。

 自分等の居る隊は乙兵站部で、隊長は青木少佐で有って良い人です。兵站部は食糧等の分配をして各部隊にやる所で有る。揚子江を船で来る全部の荷物が自分等の所に来るのです。沢山な荷物を五十人足の兵で歩哨に立つので中々苦労は多いよ。

 去年の三十一日まで支那兵の捕えたのを毎日揚子江で二百人ずつ殺したよ。川に手をしばって落して置いて上から銃で撃ったり、刀で首を切ったりして殺すが、亡国の民は実に哀れだね。まるでにわ鳥でも殺す様な気がするよ。

 十二月二十七日の夜は兵站部に食糧を盗みに来たので七人捕えて銃剣で突殺したが面白い物だったよ。全く内地にては見られない惨状だよ。

(以下略)

(P456)

井出純二氏「私が目撃した南京の惨劇」より

ヨロヨロと引き立てられる捕虜

 私の南京入りは十三日の首都陥落から二週間以上遅れた十二月二十九日だから、それ以前のごとは全く知らない。いわゆる”南京虐殺事件”は、十七日の入城式と翌十八日の慰霊祭を前に、治安の確立を焦った日本軍が、市民の間に逃げこんだ便衣兵を、大量に狩り立てて殺したのが主体ではないかと推測する。中支方面軍最高指揮官である松井大将が、慰霊祭における訓示の中で、特に軍の暴行にふれて批難、叱責したのも、今後の再発を予見し、戒めてのことではなかったのか。

 にもかかわらず、それから十数日経った後、南京埠頭で私が見た光景は、なんと解すべきか。軍司令官の威令、日本の軍規は、なぜにそこまで堕落していたのか。ましてや私が見た限りでは、大量、組織的、軍命令による白昼堂々の”公的処刑″としか見えなかったのは、いったいどうしたことなのか。私は、松井大将の声涙くだる異例の訓示と、この現実との相関について、いまだにその解釈に
苦しんでいる。

(*注 この「松井大将の涙の訓示」は、実際には2月7日のことだった、との議論もあります。)

 さて、現場は、歩哨も憲兵もいなくて立入り自由、写真撮影さえ可能で、いま考えると、なんとも不思議な話で、残虐シーンを次々にカメラに収めたが、数枚を除いてほとんど紛失してしまったのは残念である。

 南京北部の中山北路が挹江門から揚子江岸に至る東側に、下関(シャーカンと呼んでいた)駅があり、そこから引き込み線と鉄橋が江岸まで延びていて、対岸の浦ロへの貨物を鉄路から直接連絡船に移送できるようになっている。だから江岸は少し凹んでいて、ここで処刑すれば、ひとりでに河中に落ちるが、一部は流れて行っても、多くの死体はそのまま岸に累積、停留するわけだ。

 当時私は部隊の炊事を担当していたので、毎日一、二回、下関駅近くの糧秣廠へ、食糧その他の受領にトラックで出かけていた。営舎からの外出は自由であり、はっきりした記録はないが、二十九日以降、明けて正月五日ごろまでの間に、少なくも三、四回は現場へ出かけたと思う。好奇心-といってしまえばそれまでだが、航空隊の地上勤務では、ナマの戦争体験はなかなか機会が少ないので、こうした気持ちの処理もあったように思う。

 私は”血の桟橋”と名づけた。鉄橋の手前で、収容所から運ばれてきたらしい二十人ばかりの中国人捕虜がトラックから降ろされ、江岸へ連行されて行く。釈放するからと偽って連れてきたのか、みんな大きなフロシキ包みをかかえ、厚い綿入りの冬服を着ていた。軍服姿は見当らなかったが、二十、三十歳代の男が主で、坊主刈りが多いので、便衣兵かなあと眺めていた。

 江岸まで二〇〇メートルもあったろうか、道路のカーブを曲ると、江岸の斜面から水際にかけて処刑された死体がゾロゾロと重なっている。追い立てられてよろよろと歩いてきた捕虜たちは気づいて動揺したようだが、ここまで来ると、もう逃げ道はない。

 私は彼らが屠所へ引かれる羊のようにおとなしく追い立てられるのが、ふしぎでならなかった。腹が減って抵抗する気力もないのか、と想像したが、今でも解けない謎だ。

 もっとも、その前に北支戦線でやはり捕虜を日本刀で処刑する現場を見たことがあるが、このときも観念しておとなしく斬られていた。あきらめのよいのは中国人の民族性なのだろうか。


ダンベラと機関銃の処刑

 さていよいよ処刑が始まった。日本刀もあれば下士官用のダンベラを振りかざす者もいるが、捕虜はおとなしく坐りこんでいる。それを次々に斬って、水面にけり落しているのだが、ダンベラは粗末な新刀だから斬れ味は悪い。

 一撃で首をはねることができるのはかなりの名人で、二度、三度と斬りおろしてやっと首が落ちるのが大多数だが、念入りにやるのも面倒くさいのか、一撃して半死半生のままの捕虜をけり落していた。

 傍まで行くと、四十歳前後のヒゲの応召兵が「戦友○○のカタキ討ちだ。思い知れ」と大声で怒鳴りながらダンベラをふるっている。

 私に気がつくと、
「航空隊の人よ。少し手伝って下さいよ。手首も腕も疲れた。頼みますよ」
と言われたが、三十分近く見物しで胸が悪くなっていた私は、日夜連続、命がけの苦戦を重ね、多くの戦友を失った人にしてはじめて許される憎しみ、非人間性、野獣化だろうと、むしろ老兵に同情する気持だった。顧みて航空隊の地上勤務者は”軍隊の中でのドラ息子”、”苦労を知らない傍観者”みたいに思われており、手を振って早々にその場を離れ去ったことを憶い出す。

 その後もう一度同じような処刑風景を見たが、別の日に江岸で数人の兵が指さしながら見物しているので、「何ですか」と聞いてみると、十数人の捕虜を乗せた舟を揚子江の中流まで漕ぎ出して捕虜を突き落し、舟の上から機銃で射ち殺しているところだった。

 その前後、江岸にたまった死体を工兵隊らしい連中が、舟の上からサオとカギを使って流しているのを目撃して、カメラに収めた。                      
 
北支でもそうだったが、こうした処刑場面を第三者の目から隠そうという気持が、当事者にはまったくなかったようだ。

 将校か指揮官でもいたら事情を聞いてみたはずだが、姿はなかった。末端の兵隊に掃除させているような感覚だったのだろう。

 私は隊に帰ると、見聞きた情景を誰彼となく話したのだが、将校連中の意見では、①作戦の失敗、②衣食住の不足が原因だということであった。

 市民に聞くと、「蒋総統、唐生智防衛司令官の脱出も全く知らされなかった。政府からは”大丈夫、大丈夫”″と強調され安心していた。いざ陥落、逃げようとしたときは既に舟はなし、役人と一部の金持しか舟が手に入らなかった」とこぼしていた。一般市民だけでなく、敗残兵も逃げ場を失い、良民の間に紛れこんだので、その区別がつかず、勢い捕虜はふえるばかりで、当時実数一万人とも聞いた。

 またそのころ市内の電柱に、日本軍の名で「兵器修理工場をつくる。少しでも兵器取扱いの経験者は来れ、優遇する」といった求人広告が貼ってあるのを見た。中国で兵器取扱いの経験者といえば、旧軍人とみてまず間違いなしというわけで、これも苦しまぎれの敗残兵狩出しの奇策だったようだ。

(「増刊歴史と人物 秘史・太平洋戦争」=1984年12月発行、P273~P275)

*井出氏は、当時陸軍航空兵軍曹・飛行第八大隊付。