今から33年前の1973年3月29日、アメリカ軍はベトナムから完全撤退しました。
[[attached(1)]]ベトナム戦争。 ベトナム記事の最後として、この戦争について語らないわけにはいきません。 先日、5月31日に放送されたNHKのドキュメンタリー「その時歴史が動いた これは正義の戦いか ~ジャーナリストたちのベトナム戦争~」。 これは戦争と国家、メディアについて考えさせられる一級品のドキュメンタリーでした。 この番組の内容を下敷きに、ベトナム戦争とメディアについて考えてみたいと思います。
【ベトナム戦争概略(戦争開始から北爆まで)】 第二次大戦後、フランスはベトナムでの植民地支配の継続を目論むが、1954年、共産主義指導者ホー・チミン率いるベトナム民主共和国にディエンビエンフーの戦いで惨敗する。 戦後、ジュネーブで停戦協定が行われ、ベトナムは北緯17度線を境界とし、北にベトナム民主共和国、南には南ベトナム共和国という二つの国家に分断されることとなった。 この地域が共産化することを怖れたアメリカは、その後、南ベトナムに積極的に介入。 CIAの工作の下、南ベトナムにゴ・ディン・ジェムという傀儡を立てる。 しかし、民衆の支持を得られなかったゴは、クーデターにより死亡、政権は崩壊、別の米傀儡政権が立てられた。 その間、南ベトナム国内には北の支援を受けた南ベトナム解放戦線が誕生し、南ベトナム政府軍との内戦が勃発していた。 すでに1963年1月、時の米大統領、ケネディはロバート・マクナマラ国務長官のアドバイスにより南ベトナムへの直接的軍事介入を決断していたが、その後の大規模な軍事介入には難色を示していたといわれる。 しかし、同年11月、ケネディがダラスで暗殺され、右派のリンドン・ジョンソンが大統領に就任すると、ケネディの打ち出していた介入縮小の方向を覆し、アメリカは一気に大規模な軍事行動を行っていくこととなる。 決定的だった事件は1964年8月2,4日に起こった「トンキン湾事件」。 北ベトナム軍の魚雷艇が米駆逐艦を攻撃したとされる事件である(後にこれはアメリカが仕組んだ自作自演であったということが判明する)。 8月7日、この事件を受けて米上下院で「トンキン湾決議」が採択され、ついにベトナムへの宣戦布告がなされた。 1965年、米ブレーク基地が北ベトナムの攻撃を受けると、ジョンソン大統領は「ローリングサンダー作戦」、いわゆる「北爆」を敢行。同年7月には陸軍も投入された。 一時期には最大50万人の兵力が投入されたのだといわれている。 アメリカの大規模な攻撃に対し、北ベトナムは山間部や村に身を潜めたゲリラ戦で対抗した。 アメリカはこれを殲滅するため、「サーチ・アンド・デストロイ作戦」により、農村への無差別殺戮を行った。
当初、アメリカの世論は戦争に対して肯定的でした。 1965年の世論調査では米国民の65%が戦争支持だったといいます。 共産主義との戦いという大義名分は国民にとって正義と映ったのです。 戦争当初、アメリカの報道陣は軍部が出す情報をそのままお茶の間に伝えていたといいます。 彼らが得る軍の情報は、アメリカ側が成果を挙げているものばかりでした。 しかし、この状況に疑問を感じた3人のジャーナリストがいました。 CBSニュースキャスターのウォルター・クロンカイト、ニューヨークタイムス記者のデイビッド・ハルバースタム、UPI記者の二ール・シーハンの3人です。 軍の情報に疑問を感じたハルバースタムとシーハンは、より突っ込んだ取材をするようになります。 そして、そこで彼らが見たものは、軍の情報とはまるで違う、アメリカの苦戦の様子でした。 ハルバースタムはさっそくそれを記事にしました。 しかし、その記事を見たジョンソン大統領は、彼らを「祖国の裏切り者」だと名指しで批判したのです。。。 そして、政府はライバル紙に彼らの情報を打ち消す記事を依頼したのでした。 一方、テレビの方も、政府の顔色を窺っていたのか、社の自主規制により戦争での死傷者を映さないようにしていました。 65年から70年にかけて、3大ネットワークのベトナム戦争報道で死傷者が映し出されたのは、わずか3%だったといいます。 そんな中、CBSのクロンカイトは、現地から届いた映像、米軍が、味方であるはずの南ベトナムの農家を焼き払う映像、をありのままに放送することを決断します。 批判を覚悟の決断でした。 放送後、放送を見た米市民から「アメリカ人がそんなことをする筈はない!」「息子を人殺し扱いするな!」といった抗議の電話が殺到したといいます。 ジョンソン大統領からも「アメリカの国旗に泥を塗ってくれた」といった電話が掛かりました。 クロンカイトだけではありません。UPIのシーハンもこんな記事を書きました。 「アメリカが自分たちの目的のためだけに人々を苦しませ傷つけていいものなのか、疑問を持っている」 その後、様々なジャーナリストによって伝えられる非人道的な戦争の映像。 世論は徐々に戦争反対へと動いていきます。そして、こういった報道により、米国民の戦争支持率は50%を割り込んでいったのです。 1968年のテト攻勢の後、クロンカイトは戦況をリポートする特集番組の中で次のように述べます。 「この状況から抜け出すためには勝利者としての道を捨てるしかありません。民主主義を守る努力をしてきた名誉を胸にしまい、停戦交渉を始めることが唯一の方法だと私は確信するに至りました」 アメリカを代表するキャスターの言葉、これはアメリカ国民に大きな影響を与えました。 1969年、反戦の気運は頂点に達します。 全米で反戦デモが沸き起こり、その参加者は200万人を越えました。 そして、それを受けジョンソンは退陣、戦争終結を公約に掲げたニクソンが大統領になるのです。 1971年、シーハンは「トンキン湾事件」など、アメリカの戦争介入の自作自演が書かれた秘密文書「ペンタゴン・ペーパーズ」を入手、それを紙面で発表します。 ニューヨークタイムスの一面での発表でした。 そして、シーハンは北爆での死傷者の8割が民間人であったということも暴き出しました。 これに困ったニクソン大統領はニューヨークタイムスに連載の中止を求めます。 しかし、これに対してニューヨークタイムス社は紙面で「中止要請を拒否する」と回答。 ニクソンは記事の掲載の差し止めを求め、連邦最高裁判所に訴えました。 前代未聞の法廷での国家とジャーナリズムの対決、国民は固唾をのんで見守ることとなりました。 6月30日、判決が下りました。 「報道機関は政府に奉仕するのではなく、国民に奉仕するものである」 連邦最高裁はこのように述べ、大統領の掲載差し止め命令を却下したのです。 国民の側に立ったジャーナリズムが政府に勝った瞬間でした。 【参考:その時歴史が動いた これは正義の戦いか ~ジャーナリストたちのベトナム戦争~ NHK】
現代社会に於けるメディアの重要性、影響力の強さをまざまざと感じさせられました。 「報道機関は政府に奉仕するのではなく、国民に奉仕するものである」 米連邦最高裁の言葉、まさにその通りですね。 現代の人々は情報をテレビや新聞、雑誌などのメディアから入手しています。 真実を伝える、それが報道のあるべき姿です。 確かに真実とはそれぞれの見方によって違うものなのかもしれませんが、政府の情報を鵜呑みにしたり、政府の意向に沿ったものであってはならないです。 中立の立場というのは無理だと思います。 それぞれの局にも新聞にも、支持する政党や考え方というものがあっていいとは思います。 けれども、事実を歪曲して伝えてはならない。 伝えるべきことをわざと伝えなかったり、編集などによって実際のものとは違う意図で報道してはいけない、そして、都合の悪い報道を差し止めようとする政府の圧力に屈してはならないと思います。 ベトナム戦争当時、日本政府は全面的にこの戦争を支持したのだといわれます。 そして、その姿勢を批判した記者も少なからずいたといわれます。 しかし、彼らは日本政府から圧力を受け、社からも不遇な扱いを受け、職を追われた者も多いそうです。 現在でも、アメリカでは、イラク戦争が間違っていたと色々な批判が出ているのに対し、日本では戦争を真っ先に支持した小泉政権への批判はあまり聴こえてきません。 あの戦争は、日本の国民の大多数が間違っていたと考えているわけですから、メディアの方々も、もっと当時の政府を糾弾してもいいのにと思います。 アメリカ政府はベトナムの教訓からか、湾岸戦争やイラク戦争での情報統制を強めています。 アメリカ政府は二度とベトナムでの「失敗」は繰り返さないでしょう。 もちろん、日本を含めた各国の政府も同じです。 メディアは国民の側に立てば、政府の横暴を正す大きな武器になりますが、政府の側に立ってしまったら国民にとって大きな脅威になります。 国民の考え方はメディアによって形作られているのです。 だから、メディアの方々には、ジャーナリスト精神を忘れず、視聴率競争なんかに負けずにもっと頑張ってもらいたい。 だって、メディアが政府の味方になったら政府の横暴を止められる者は誰もいなくなってしまうから。 最後に、当時、反戦デモにより退陣を余儀なくされたリンドン・ジョンソン元大統領が、全米放送人会議のジャーナリストたちの前で語った言葉をご紹介します(NHK「その時歴史が動いた」で紹介されていた言葉です)。 「この国がうまくいくかどうかは、真実を広めるメディアにかかっています。その真実に基づいて民主主義の決定はなされるのです。アメリカの報道機関は真実を知らせる自由と誠実さ、そして責任を決して妥協することなく保たなくてはならないのです」 長々と失礼致しました。 写真は上がフエ近郊、ベトナム戦争当時アメリカの見張り台があったロックパイル。 下は銃痕が無数に残った国道1号線沿いにある教会です。 ホー・チミンの写真が手元にないのでベトナム記事はひとまずこれで終わりです。[[attached(2)]]