花子も無事社会人となりました。
中学受験、大学受験と過干渉といえるほど伴走してきましたが、
大学入学後は極力、干渉はしていないつもりでいました。
ところが、聖子から言わせると今でも干渉し過ぎ、と駄目出しをされています。
「どこ行くの?」
「誰と行ってたの?」
「試験はいつからなの?」
などとつい聞いてしまったりするのですが、
聖子にみつかると「聞きすぎ、そのうち、話してくれなくなるよ」と呆れられます。
食事や旅行中の会話の流れの中で聞く分には問題ないのですが、会うたびに聞くのはNGだそうです。
「もう成人だよ。
子ども達には子ども達の人生があり、パパの考える幸せと子ども達の考える幸せは違うので、子ども達が困ったり、相談してこないのに、ああせい、こうせい、と言うのは慎むべき」
などと言われています。
確かに、最近は子ども達の相談相手は私ではなく、専ら聖子ですし、私は怖くてウルさいオジさんになりつつあります。
考えてみると、大学入学後も就活、婚活、社会人としてのキャリア形成、更には、孫の受験、就活、婚活。。。と永遠とイベントが続きます。
子どもの考える幸せのカタチは、親の考えと同じではないし、社会人になれば自分の実力でやっていく他なく、親がサポートし続けられるものではありません。
パパは子どもが躓こうとする石をどけ続けてきた。サポートがなくなった瞬間に大きな石に躓いたら大怪我になるよ。
もう大人なのだから、ほっといたら。
そのとおりと思うこともあります。
私のサポートで実力以上の背伸びになっているとしたら、今後困るだろうし、幸せのカタチを押し付けるのは、自分の子どもとは言え、宜しくないかなと思ったりします。
翻って、私自身も、今の職業や結婚は親に相談することもなく、自分自身で決めていますし、親には子離れして欲しいとずっと思ってきました。
母は、今でも自分のことよりも私たちきょうだいの事を気にかけていますし、自分の幸せよりも私たちの幸せを願っている。。。
それはありがたいのですが、母にはもっと自分の人生を楽しんで欲しいと思っています。
なんだか、歴史は繰り返している感がありますが、過干渉は子どもの幸せを阻害することになるのかもしれません。
私自身も悩みの半分は自分のことではなく、子どもの事だったりしますので、必要以上に悩むのではなく、良いことをシェアするくらいの気持ちのほうが良いのかなと、色々と考える今日この頃です。