前回の続きです。
毛利吉成 前述の「南路志」に因ると、
信長公に仕えて武勇の達人と評されています。
朝鮮の役でも黒田長政、3番隊の武将として蔚山城の攻防や、
加藤清正の救援に駆けつけており、武勇は中々だったようです。
一方、小倉入りしてからの事蹟は秀吉の行政官としての行動が目立ちます。
6万石の小身であったことに加え、秀吉に従って各地を転々としたことから
故地を持たなかった為に、家中の統制に苦労したようです。
その息子、毛利勝永は大坂の陣で牢人五人衆として一躍名を上げますが、
早くから秀吉に目を掛けられていたようで、豊前守の官位をもらっています。
吉川広家や毛利家への使者として、「秀吉発給文書」や「浅野家文書」等に
度々豊前守の名前が出てきます。
真田丸で、毛利勝永はまだ登場していないけど、秀吉篇でちらっと
登場させてもよかったのになと思いました。
さて、そんな毛利親子が改修し現在の小倉城の基礎を
作ったのですが、関ヶ原で西軍についたために
毛利家は改易されてしまうのでした。
つづく

