津田信任と信成 | Tetsu龍 罷り通る

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津田盛月の嫡男津田信任は、秀吉古参の家臣の一人で

長浜時代から仕えていたと云われます。

黄母衣衆として秀吉に近侍し、

文禄2年(1593年)父津田盛月の死去により

山城三牧城3万5千石を継ぎました。

しかしすぐに、洛外千人斬の犯人として捕まります。

 

死罪の処を、父盛月の功績に免じて

加賀前田藩預かりのうえ蟄居となります。

家督は弟の津田信成が1万3千石に減封のうえ継ぎました。

信成も秀吉の直臣として、小牧、長久手の戦いなどに従軍、

関ヶ原では東軍に着き御牧藩を設立しますが、

信成も後に事件に巻き込まれ(ここもややこしいので割愛します)

御牧藩も改易となりました。

 

と、津田氏3代を見てくると、

豊臣政権の大名で取り上げるべきは信任じゃなくて

むしろ親父の津田盛月ですね。

 

そんな津田氏が所領として秀吉から与えられたのが

山城の国三牧城(御牧城のち御牧藩)です。

場所はと云うと、現在の地名で云うと

京都府久世郡久御山町中島向野の辺りになりましょうか。

 

しかし、ここで新たな問題が……。

この辺りは、巨椋池(おぐらいけ)と云う巨大な淡水湖が

1941年(昭和16年)まで存在していたのです。

よくあることだが、今とは全く地形が違うんですよね。

つづく