豊臣政権の大名 その八 郡 宗保 | Tetsu龍 罷り通る

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本日ご登場は郡 宗保(こおり むねやす)さん、
元々は荒木村重さんの家臣です。

村重没落後秀吉に仕えます。

知行地は美濃国可児郡で3,000石とありますので、

万石以上を大名と定義すると、大名ではありませんね。

 

娘に細川忠興の側室松の丸(藤)等が居ます。

老臣ながら、秀吉、秀頼と仕え、

七手組組頭の一人に数えられることもあります。

 

大阪の陣の戦いでは豊臣方の旗頭を努め、

夏の陣天王寺口、岡山口の戦いでは旗が徳川方に

渡るのを阻止し、大阪城で自刃しました。

 

父は伊丹親保で、伊丹市の一族です。

元亀2年(1571年)白井河原の戦いで

茨木重朝(荒木重朝)、和田惟政 VS 荒木村重 中川清秀

が激突しますが、和田惟政の家臣に、郡正信と云う人が居ます。

何代か前で伊丹親保さんと繋がりがあるみたいです。

この人の居城が茨木市にある郡山城。

 

豊田裕章著「茨木城から歴史を展望する
茨木市立文化資料館によると、

有岡城の戦いの時に
郡山砦の修築を秀吉が担当したとされていますので、

郡宗保が郡山城に居たとしたら

この時に村重から秀吉に鞍替えしたのかな?

推論ですよ(笑)

 

まあー限りなく薄い繋がりですが
と云うことで本日のお城は
郡山城でした。

 

つづく