豊臣政権の大名 その伍 片桐且元 | Tetsu龍 罷り通る

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 賤ヶ岳の七本槍と云えば福島正則、加藤清正、加藤嘉明、
脇坂 安治、平野 長泰、片桐 且元、糟屋 武則、


その中で出世株は福島と両加藤。
その次が脇坂と片桐、

そして地味派の代表が糟屋と平野の二人です。

 
地味派の代表糟屋さんはこの前やりましたので、

今回は中堅処から、片桐且元さんをいってみましょう。

 片桐且元は、賤ヶ岳七本槍で名を馳せた後、

秀吉存命中はもう一つ地味だったりします。

それが、秀吉死後大坂城番として
徳川との交渉の矢面に立ち一躍スポットライトが当たる訳で。

方広寺釣鐘事件で徳川との交渉に東奔西走するものの、
逆に淀君に疑われ改易されますが、
徳川から厚遇され栄進を重ねることになるのは皮肉なものです。


 

 天正11年(1583年)摂津    3,000 

文禄04年(1595年)摂津茨木城 10,000

慶長05年(1600年)大和竜田藩 24,000

慶長20年(1615年)      40,000

 そんな片桐且元の領地は茨木城が有名。

しかし、ここの本丸は小学校の敷地なので、
無暗に入れなかったりする。口惜しいですね。

まあ、近くの茨木神社に
移築の搦め手門等がありますので、
そちらで我慢してください。

積みなおされた石垣も、茨木城の石垣だったのでは
と云われております。

もっともこの頃の且元は大坂城の城番なので、
殆ど茨木城にはいなかったはずですが。

 

次は龍田藩陣屋

新今宮から関西本線に乗って王寺まで、

奈良県生駒郡斑鳩町龍田南の辺りが龍田藩陣屋のあった処です。

白山神社横の鈎状のため池が、お堀の名残として残っています。

そんな且元の家系は数代後に、無嗣断絶となります。

 訪れたのは前の立石城と同じ日で、
三田から一旦大阪に戻って、環状線経由で奈良まで。

いやハードやわ。
m(_ _ )m

 

 

つづく