前回、七手組青木一重さんをさくっと登場させましたが、
そも、七手組(ななてぐみ)とはなんぞや?
七手組は秀吉の精鋭部隊なんですね。
親衛隊としては、黄母衣衆(きほろしゅう)と云うのがありますが、
その中から選りすぐりの1万を七つの部隊に分けた処から来ています。
秀吉の警護や、朝廷儀礼の時の供回り等が主な仕事でした。
組頭(青木一重なんかも正確には七手組組頭ですね)は、
およそ1万石程度の所領をもらっていたようで、
秀吉死後も秀頼に仕えていました。
また、七人の内四人が大坂の陣で討死を遂げています。
時代が少し下るので、組頭は息子達に受け継がれていたようですが。
七手組その他の面々は、
速水 守久(はやみ もりひさ)、
伊東 長実(いとう ながざね)、
堀田 盛高(ほった もりたか)、
中島 氏種(なかしま うじたね)、
真野 助宗(まの そうすけ)、
野々村幸成(ののむら ゆきなり)です。
これに松浦 秀任(まつうら ひでとう)や
郡 宗保(こおり むねやす)を加えている資料もあるようです。
その他の面々は、いずれ改めてご紹介いたしますが、
前回の青木 一重(あおきかずしげ)の頁が
少し舌足らずだったので、
補足させていただきます。
青木氏が大坂の陣も豊臣方に参加しているのに、
何故摂津麻田藩を開けたのかと云うと、
他の七手組頭と違い、
今川家衰退後に徳川家の家臣だったと云うのがあるようです。
大坂冬の陣後の和議交渉で徳川方へ赴いた帰り、
徳川方の辣腕、板倉勝重に捕まり。
でもって、大坂に帰ったら弟を殺すなんて云われたので、
そのまま大坂には戻んなかったんですね。
結局夏の陣は不参加、
頭丸めて隠居してたのを、
昔の誼で召し出されて徳川の家臣に戻ったと云う。
小藩とはいえ、摂津麻田藩1万2千石をもらったんですから、
勝ち組ですな。
つづく