「自分を大切にする」


こうして言葉にするのは簡単でも、


わかっているようで、


自分のなかに、


感覚として、育っていないんです。




まわりを気にせず、


人の言うことに耳をかさず、


自分の気持ちだけに従っていればいい、


みたいな、


「我を押し通す」イメージが強くあって、


それ自体、いいのか悪いのかも、感覚としてわからないくらい、


自分をおしころすことに、


慣れてしまっているんですね。


いやいや、そんなこと、


したらアカンやろ、って、


謙虚さを忘れたらアカンやろ、って、


自分の感情が動くと、すぐに


ブレーキ踏みたくなってしまいます。




わたしは、人に頼るのが苦手です。


人にお願いするのも苦手です。


自分で自分のことを決めてきませんでした。


鬼滅流に言うならば、


生殺与奪の権を人に握らせてきたと思います。


なぜそうなったのかは、


これまでイヤというほど書いてきましたから、


もう触れません。


ただ、その環境要因の影響ゆえに、


これまで自分の気持ちを大切にするという経験ができず、


また、


その経験を避けるような思考や行動をしてきたがゆえに、


「自分の感情や感覚を大切にする」ということができない。



はい。


これ。


これなんです。


「自分を大切にする」ってことは。


生殺与奪の権を自分に取り戻すためには、


自分の感覚を大切にすること。


信じること。




これまで、わたしは、


長い間ずっと、


PTSDの症状に悩んできました。


刺激になることに出くわすと、


過剰な反応が起きて苦しくなる。


それを、


なんとかしよう、


なんとか抑えようと、


頑張ってきました。


問題の根っこを


掘り下げて、掘り下げて、


「原因」を知ることで、


「対処」しようとしてきた。




でも…


ほんとうは、まず、


「過剰な反応が出た」ということに、


まず、


「出せてよかった」


と思うことから


始めるべきだったんじゃないかな、と


思います。


出てきたもの(過剰反応)が、


どんなに毒々しくても、


おどろおどろしくても、


鬼のようでも…



抑えつけていたものを

「出せた」ことは

すごいこと。


ずっと我慢して、辛かったのに、


苦しかったのに、出せなかったこと、


「苦しいんです」


「恐いんです」


って、


サインを出せたのです。


「よく頑張って、出してくれたね」


「それがあなたの恐れることなんだね」


「怖いと感じることからは、距離をおこうね」


「傷つき覚悟で立ち向かおうとしなくていいんだよ、だって…」


「それがあなたのイヤなことなんだもの」


そう。


苦しいも、辛いも、


サインになって表れると、


自分に気づいてあげられる。


「わたしって、どんな人?」


かがわかる。


ひとつ自分と仲良くなれる。




好きなもの、好きなことだったら、


意識しなくても、


「わたしって、○○が好きな人」


って思えるのに、


それが辛いこと、苦しいことだと、


そう思えない。


「○○が苦手な人」


というだけなのに。


責めてきたんです。


「○○が苦手なわたしではいけない」


と。




しばらく、ひとり、心の旅を続けてきました。


けど…


それも、


「寂しさ」を抑えつける行為でした。


ほんとうは寂しかった。


ほんとうは、


たまらなく、


恋しかった。


やせ我慢だったけれど、


「わたしはそれを寂しいと感じる人」


だということを、


ひとつ、知ることができたんですね。



自分を大切に。


自分に優しく。


ときに甘く。(特にこれは努めて大切に!)




昨日、カフェインを許してみて、

不安が強くなることを知りました。

コーヒーは好きだけれど、

このコーヒーをまた飲みたいけど…

飲みたいという気持ちも大切に、

そして、

不安になりたくはないという気持ちも大切に。



今日は、

柚子茶をオーダーしようかな。

わかっているなら、

コーヒーでもいいけど。ニコニコルンルン