前回の記事から、思うこと…


新年から毒吐かれて

あてられないように

がんばってみたけど

やっぱりあてられて

自分も毒吐いて

はずかしいな

かっこわるいな


ポエムちっくに振り返ってみる。笑


「かっこわるいな」

嫌なエネルギーに同調しちゃったので、

そりゃ嫌です。

流せなかったので、

そりゃ嫌です。

流せたらよかったのにと思うから、

流せなかった自分を責める気持ちが

「かっこわるい」につながる。


昔のわたしなら

そこで完結していました。

自分を責めて終わっていた。

不甲斐ない、と。

だけど、いまは

その先に続きがある。


そんなわたしに

できないわたしに

世界は優しいのです

あたたかいのです

待ってくれます

できていないわたしを

まるごと包んで

愛してくれるのです


あたたかさにつつまれて

わたしの凍える心は

ゆるんで溶けて

やわらかさを取り戻してゆきます

やさしさを思い出してゆきます

愛のある世界へと戻ってゆきます

だれかを愛せるぬくもりが

できない自分を愛せるぬくもりが

わたしのなかにも宿ります


ヒーリング、受けられてよかった。

このタイミングで、受けられてよかった。


ヒーリングって、

超常現象的なイメージ、

サイキックなイメージがあるけど、

わたしも過去にはそう思っていたけど、

違うんです。


「自分をととのえるちからが、自分のなかにある」ということに、

気づく機会を意識して持てる時間のことを、

ヒーリングとよぶんだと思います。


「自分を自分で癒やす能力」に気づく始まりのステップは、

「受けとっている」と感じること。

よく「(受けとると)意図する」という言い方であらわされますよね。


受けとっているものは、

目には見えないけれど、

自分を守ってくれているもののこと。

宗教でいうところの

「他力(自分では操作できない自然の流れ)」

その「他力」に包まれて、守られて、

自分の「いま」があるということに気づくと、

目には見えないものを、

いつの間にか受け取っている自分がいることを、思い出せる。


自力だけでできている、やっていると思いこんでいると、

視野が狭くなったり、

選べるものが少なくなったり、

善悪や良し悪しで判断するから、

一喜一憂して、疲れたりする。

そんな自分の状態を自覚できると、

「ない! ない!」と、

漠然とした飢えを感じながら生きている自分の状態を

見直そうという気持ちが生まれる。

エゴだったと気づける。

そこから自分を解放できる。


それが、ヒーリング。

それをサポートしてくれて、

プロセスを踏むアプローチを助けて、

ガイドして(導いて)くれるのが

ヒーラーさんなんだと思います。


ヒーリングって、

自分と向き合うことだと思います。


信じるとか、信じないとか、

どっちでもいい。

見えないものは信じない、という人がいていい。

わたしも過去にはそうだった。

見えるものだけがすべてだった。

見えるものだけが

「いま」を構成するすべてだと

そう思って生きていた。

けれど、

見えないものが含まれない「いま」は

私にとって、

永遠に変わらない、変えられない「不幸」を

さだめとあきらめて背負うこと、

絶望することでした。


親に虐待され、愛されず、

身内にも、世の中にも

見捨てられ、見放され、忘れ去られ、

愛を知らずに育ったわたしは

愛の育みかたを知らないので

その能力を備えていないので

幸せにはなれない

愛されず育ったら

その延長にある人生も

愛のないものになる


見えるものだけがすべての人たちから

そう言われ、そう思われて

固定観念というレッテルを貼られ

決めつけられた人生から

自分を解放してあげられない運命を

死ぬまで抱えるしかない。

見えるものだけを「いま」にしてしまうと、

その選択肢しかなくなるんです。


希望って、見えないですよね。

可能性も、そうです。

じつは、変化も、そうです。


見えないものを排除すると、

愛を知る機会を得られるかもしれないという

希望がなくなります。

可能性もなくなります。

愛を知って、誰かを愛せる人に

変化するということもないし、望めない…

ということになる。


変えられない、は、

いい意味でいえば

「割り切り」になり

悲しい表現にすると

「見限る」ということ。


毒を吐く人たちは

わたしに対して、

わたしが窮屈になるような、

「普遍のいま」を押し付けようとします。

「普遍に見限りたい」のです。


「普遍のいま」って、

その人の固定観念のことであって、

そんなもの、本当はないんです。

作り出されたものであって、

「普遍」にしておきたいのは、

変わらない形で置いておきたいという

その人の「エゴ」です。


立場の弱いものを作り出すのも

マウントを取ろうとするのも

「こいつは(自分よりも)ダメだ」と

言い続けていい、思い続けていい相手を確保し続けることで

優越を感じたいから。

安心が欲しいから。

返していえば、

優越を感じられない、

安心がない状態、

不安や恐れがそうさせているんです。

「不安です」「怖いです」と言わないから、

隠れていて見えないけれど、

不安はたしかに、そこにあるんです。

妬み嫉みも

「普遍に見限りたい」という思いを

相手が裏切ったときに起こる。

自分の認知の領域を超えるような

素晴らしい結果を見せつけられると起こる。

見えないけれど、あるんです。


そういった

「見えないもの」に気づけると、

可能性が生まれる。

「まわりの状態が変わっても、そのなかで、自分を大切にできる方法はあるし、探せる」

そう思えるようになる。


新年から毒々しい人たちに

そのことを

わかってほしかったんですけど

叶わなかったから

イラッとして

毒々しいわたしが出てきてしまった。

そういうことが起きてました。


責めない。

そういう状況があった、というだけ。

そのなかで、得たものがあります。

いやだったから、

不快な思いが出てきた。

だから気づけた。

自分はどうありたいと思っているか。

なにを大切にしたいと思っているか。


そんなわたしを愛してくれる人たちがいます。

「がんばれよ〜!(危なっかしいけど爆笑)」

って、

応援してくれる人たちがいます。


だから、

危なっかしいけど、

日々、学んで生きてゆくことを

わたしはあきらめていません。


今日も学びがいっぱい。


嬉しいも、悲しいも、

ほかの気持ちも…

楽しみます。