●風英堂長月記=専念と専任、収束と終息、明かりと灯りは何処に

 

9月9日夕方、ガースの記者会見が突然始まっていた。あれ?30日までの残り任期は「コロナ対策に専念」するのだと思っていたが、コロナ対策の出口を示すことなく、自画自賛の退陣会見だった。丁寧な説明を避けながら能弁だったが、ウイルス対応の反省はほとんど無かった。一方、退陣直前の「卒業旅行」のような訪米を今月末で調整している。また、公式ツイッターでは連日、政権の実績アピールのような文章ばかりを投稿している。

 

ところで、「今後は新型コロナ対策に専念する」と大見得を切った翌日からの<首相動静>をチェックした人がいる。翌日4日は朝から正午まで大学病院で健康診断、午後は議員宿舎でのんびり、ホテル内の理容店で2時間かけて散髪しただけ。5日は朝から午後3時まで議員宿舎、夜はパラリンピックの閉会式に出席。6日は首相官邸の敷地内を散歩、昼には歯の治療、その後は小泉進次郎など分刻みの面会ラッシュ。この3日間で総理が新型コロナ対策のために働いたのは36分間だけで、健康管理に勤しんだようだが、総選挙には出るのだろうか。

 

 

さて、東大王などテレビのクイズ番組の見過ぎであろうか、悪しき言葉遣いが非常に気になる様になったが、言葉の解釈と理解は難しい。あの時<専念>と言ったようだが、我が耳には<専任>と聞こえていた。専念とは「一つのことに心を集中すること」であり、専任は「一つの仕事のみを受け持つこと」という意味がある。総理は今すぐ止めて、コロナ専任大臣になることを宣言したのかと思った。ならば誰が政事を差配するのかと考えてしまった。

 

もう一人の老害政治家も言葉の使い方を知らないようだ。麻生大魔神は「感染拡大はまがりなりにも収束し」と述べ、さらに「五輪はマスコミが阻害した中で経済や消費に効果」と発言した。嘘をついて威嚇する姿勢は変わっていない。この<しゅうそく>と言う言葉にはすっかり終わること、絶えること、止むことの意味の<終息>があり、<収束>はおさまりがつくこと、しめくくり、収拾などある一定の状態に落ち着く意味を表す。感染症の完全制圧の場合には<終息>で、社会的状況などが落ち着き、ほぼ事態が収まってきた場合には<収束>を用いる。この場合は<曲りなりに>の認識に問題がある。

 

また「明かりははっきりと見え始めている」などと話したが、この発言にお仲間の橋下徹でさえ、一国の総理が今のこの状況で言うのは「時期尚早なのかな」と言っている。「あかり」は人工的にその周辺を照らすという<灯り>と書き、一方の<明かり>には太陽や月の光が似つかわしい言葉だ。だが、<明かり>には潔白であることの証明、疑いを晴らす証拠と言う意味もあり、安全安心の明かりと灯りは何処にあるのだろうか。

 

 

それにしても、<専念専任>しても<専横と放任>は変わらず、「諦念無しで邪念のみ」が残り、勝手気ままにふるまうことに変りはないようだ。昨年3月下旬、引越し荷物を出した後のアパートメントの窓から見える南仏の明かり。この陽射しに明かりをみたいのだが。