gildongのブログ

gildongのブログ

流れない時の中で・・・

Amebaでブログを始めよう!

以前から時々考えることですが、

例えば2008年4月18日のみ言には、来たる7年大患難路程を克服するためには、神様が真の家庭をご覧になって「アダム家庭における堕落が無かった」と言えるところまで行かなくてはいけない、そのためには心情世界に置かれた二次的カインアベルの峠を超えなければならない、私も共に行くが教えてあげることができない、という内容があります。

ここで、み言の本題はともかく、「堕落が無かった」と言える状況とは、例えばノア家庭の摂理で、神様が、裸で寝ているノアを見ても恥ずかしく思わないハムの姿を見て堕落しない本然の人間を見つめる思いを感服されようとした話にも通じますが、そのような象徴的な出来事を超えて、

人類始祖の堕落以来、神様が味わってこられた悲哀や苦難を、神様は忘れることができるだろうか、ということです。

宇宙創造年代から見れば人類歴史6000年は瞬きする間にも及ばない期間に過ぎませんが、万物の創造期間さえ、おそらくは来るべき人間の誕生を待ちわびて光陰矢のごとく駆け抜けてこられた神様であり、たとえ短い期間でも、たとえ神様の心情の相対となり得た人々は僅かでも、そこで感じられた情的な喜び、最終的に悲しみに終わった事件でさえ、決して小さな出来事ではなかった筈です。

神様が人類の親である以上、たとえ堕落しても親としての責任が先立つ神様であり、神様はあくまでもご自身が創造された人類を親の立場で見守り導いてこられた筈です。

本来、創造原理的なものにしか相対できない神様が、堕落以降の罪悪歴史を見ざるを得ない立場に置かれ、直接ではないにしろ関わり、たとえ一時的にでも記憶された、その記憶は、神様の心情から消えることがあるだろうか、ということです。

もしかしたら、いつか人類から堕落の影が消え失せて、仮に歴史的文献を通してしかその事実を知り得ないような人々だけが存在する時が来たとして、

確かに非原理的な歴史の記憶であったとしても、人類が苦労された神様の心情を忘れて、無邪気に創造本然の喜びを満喫してよいのだろうか、

神様はあくまでも原理的に対処されたのだから、過ぎ去った悲しみであるなら、苦難をしのばれた神様の歴史を、神様の履歴の一部として共有させて頂くべきではないか、

このような歴史がある以上、神様の心情に触れるなら、たとえそれが一時的には悲しみであったとしても、神様の履歴の大部分を占める苦難の中に現れた神様の心情を顧みない訳にはいかないし、実際に、神様の本体は心情であるがゆえに、神様との出会いは、必然的に心情的な出会いであり、出会えた喜びは、そこに至る苦難や悲しみと渾然一体となっていて、むしろその痛みが喜びを一層衝撃的なものにし、悲しみとの決別を強く促す力にさえなる、

いつか、この歴史の果てに、

「ルーシェルよ、お前は天使として創造したが、なかなか手強かったぞ、苦しめてくれたじゃないか、やはり私が手抜きせずに全霊を傾けて創造しただけのことはあるな」

「いいえ神様、貴方が最後までみ旨を完徹してくださったお陰で私も元の天使に戻ることができました」

なんていう日は来るのだろうか。