こんにちは、元気ですか(・・?

 

前回のブログで明治維新偉勲の人たちには、感謝すべきだと題名をつけました。ここでいう明治偉勲というのは、江戸時代から明治にかけて体制・システムを変えようと参加した人等のことです。当時の多くの知識人、江戸時代の身分制度で埋もれた知識人もいたでしょう。そういう人たちが、黒船来航によって江戸幕府のシステムを変えようとした。もちろん江戸時代の良いところも残そうとした人もいたでしょうし、全く変えてしまえばいいという人等もいたでしょう。

 

人それぞれ考え方は違うからね。徳川家康が、豊臣家を滅ぼしたことで、盤石な徳川幕府を形成したようにどうしても前の政権を倒すことによって体制が変わったということを知らしめたように、江戸徳川幕府から明治維新による体制変化で時代が変わるという意識を庶民に持たせたかったのかもしれませんね。

 

といって、徳川幕府はなくなったけれども徳川家の重臣は、明治時代になったとしても近代の中心に重要な役目を背負っていたので、江戸時代から明治への流れは、本格的な体制変化ではなかったということにもなる。

 

【自著「日本独立」創刊プロジェクト】日本がグローバリスト支配を脱し、独立国として生きるための戦略のヒント①

 

 

ここ最近立憲民主党の原口議員の動画が、youtube動画のトップ画面に映し出される。この議員は、佐賀県選出の議員。佐賀県は、過去多くの偉人を輩出した。

 

振り返ればエガがいるin佐賀

 

人間が生きてゆく基本が、食うところ寝るところ住む処。

 

仏教伝来とともに日本列島に流行したのが天然痘。天然痘は紀元前より、伝染力が非常に強く死に至る疫病として恐れられていた。江戸時代には、天然痘にかかり治癒した場合でも醜い瘢痕が残るために、忌み嫌われていたとの記録がある。

 

イギリスの医学者であり、近代免疫学の父ともよばれる。安全性の高い種痘法・牛痘接種法を開発した。

 

ドイツ帝国の医師。1848年から1851年まで長崎の出島で働いていた。イギリスではすでに天然痘の治癒(ワクチン)がなされているにもかかわらず、江戸時代の日本では、この流行り病で多くの民、身分に関係なくこの伝染病に苦しんでいた。

長崎出島には、オランダ、唐(明・清)から手に入れる本などを翻訳したり、通訳したりする通詞がいた。通詞に関しては以前、信長考察の過去ブログで紹介しましたね。

 

明治維新もこの通詞が大きく活躍している。この通詞等の翻訳した本ですでに一部の蘭医などはヨーロッパの情報を得ていた。当然、牛の種痘ワクチンを手にいれようとする蘭医も現れる。当時は、調詞にしても医者にしてもスポンサーというのが常にいた。それが、現代の大商人であるオーナー企業家。当時では、長崎を拠点とする貿易商人とそれに関係する大名。

 

江戸時代は、徳川幕府という国家体制ですが、多くの地方大名は、徳川家に従順しただけで大名各それぞれが国王であり国主であった。このワクチンを一度は、ロシアから手に入れた話もある。

 

そのワクチンを長崎出島で新鮮な痘菌を使って子供に種痘を実施して成功した。その後佐賀藩から大村藩を経て九州北部に本格的な種痘の普及が始まる。

 

この時代に越前福井藩では天然痘が流行していた。そこで活躍したのが笠原良策。

 

 

福井で天然痘に苦しんでいる庶民を助けるために死に物狂いでこの痘苗を長崎から福井の持ち帰り感染を防ぐ道筋を作った。その状況は、wikiで確認してください。しかし、当時の日本では、そういう論理的なものに対して妖術として非難をするものもいた。祈祷は信じるが、妖術に見える者は信用しない。

 

ではこういった医師、当時では町医者は、金儲けでしたでしょうか。多くの感染者が、貧民だった。そのため無償で種痘をほどこし続けた。種継ぎようの子供を確保するためでもあったが。

 

これら町医者が、このような活動をしようにも当時は、まずは藩主の許可を得るために、いわゆる説得するために何度説明し、その上、今度は幕府にお伺いしなければならない状況。これが当時の徳川幕府だった。

 

チャンバラを主とした維新の人等のイメージが強いが、そのような行動がなければ現実が認識できないのも日本なのかもしれない。攘夷論というのは、海外知識を排斥することだったが、結局譲位派である長州が、海外の知識を得る運動へと変貌した。

 

越前藩主松平春嶽は、幕府へ許可を求めたが、佐賀藩主鍋島直正は、オランダ商館長に牛痘苗の取り寄せを求め、さらにオランダ植民地であったインドネシアの首都バタヴィア(ジャカルタ)から痘痂を取り寄せ、鍋島藩藩医楢林宗健の息子に接種し回復、この病苗が全国へと受け継がれるようになる。鍋島直正の息子もその接種を受けた。幕府へ許可を求めたという史料は、自分は見つけられていない。

 

こういった情報の素は、通詞による翻訳欲のたまものでもある。もう一つあげると、ペリー来航前に、すでに出島の通詞は、英語を習得していた通詞もいた。ジョン万次郎だけではない。

 

すでにペリー来航の5年前に、何故か日本に密入国している。wikiの説明もどうも眉唾のような渡来説明にみえるが、こういう密入国者が、ポルトガル通詞に英語を教え、その学生等が、のちにペリー・ハリス等の外交折衝通訳を引き受け、外交代表をつとめた。

 

日本は下級官僚が優秀だったし、何故か、それらの人等が、次の日本を形成していった。そしてそれら下級官僚を援助したのが、町年寄りともいえる町商人。江戸時代は、10万石大名といえば徳川家にゆかりがある譜代大名がほとんどだが、町商人の中には、譜代大名と並ぶくらいの金持ちがいた。そういった人等が、庶民から縁のある人材を選出し、世に出していた。

 

明治維新というのは、我々庶民にはうかがいしれない何者かに自然と動かされて進んだ時代だったかもしれませんね。

 

ちなみに織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、徳川秀忠、徳川家光といった時代、キリスト教の宣教師に弾圧を加え死刑にしていないのが、織田信長と徳川家康のみです。

 

殷周革命からシャーマン的政治から論理による統治方式へと変わる時期と考察しました。では、論理による統治方式とは何か。日本の単語は、主に西洋の言語を翻訳するときに通詞や蘭医などが創作して作られた単語です。翻訳をしながら、日本的思想、主に中国の儒教的経本による教育の中で養ったイメージを描きながら創作していった単語。物質とか元素とかいう単語も翻訳から生まれた創作単語。他にもたくさんあります。

 

よって、海外の単語を日本で翻訳された単語と同じイメージで考えると少し違う場合が生じる。文明という単語。これは、ある意味都市化という意味が潜在する。都市化とは何か。多くの多様な民族が集まり、商売をしたり、生活したり、活動したりする場所。

 

商業活動が活発になるにしたがって、その場所に多くの人が集まる。多くの多種多様な文化を持った民族が集まる。論理とは、複雑なものを単純化する行為をいいます。全ての始まりは言葉にある。カオスとは、言葉がない。人間は言葉によって天と地をわけ、カオスした世界を整理した。それが、初めに言葉ありき。

 

社会、民族の通例、慣習、習慣、常識、このようなことは、一つの塊の部族では共通でよかったが、都市化が進み多くのそれらが違う民族が、集まるような都市化では、一つの塊の通例、慣習、習慣常識が、絶対法則ではなくなる。そこで考えられたのが、想像力を生かし、視点を変えて物事を身につけることだった。

 

筋道をたてて説明し、相手に納得してもらう。論理で伝達する方法です。それも相手がわかるように説明すること。理解しあえない他者と一つの社会を構築していくこと。コミュニケーションの手段として論理が生まれ、論理の必要性が、大陸国家では、生きる手段となった。

 

その点、日本社会は、信頼できないものはよそ者。よそ者とは関係を結ばない。鎖国まではそれでよかったし、それが常識だとしていたのが日本の住民。

 

論理というのは、闘争の言語でもある。諸葛孔明などが登場する三国志など、論争で人を殺す場面も見られる。

 

そこで考えられたのが、相手の視点にたって考える想像力。この論理力についても海外の特に大陸の知識層は、研究している。

 

そのためには、常識を疑うこと。さらに楽しみに価値を抱くこと。楽しむことが許されない社会こそ文化は未熟となる。

 

楽しみに価値を持たないから、人の顔色を常にうかがい相手の意見に屈するのではなく、相手の意見に自分の意見を何も考えず従う。強い者に従う。親を選べないと同様、サラリーマン社会という組織に入った以上、上司は選べない。楽しむという価値に重きをおこさないから、そういうことに疑問を持たない。

 

学校という英単語は、スクール。日本語で学校という言葉で我々日本人が描くイメージを思い浮かべる。しかし、スクールの語源は、ギリシャ語でスコーレ。その意味は、暇。学校で学ぶことは、支配の道具にされた。もともと支配者は、遊びとして勉強をしていた。それだけ暇だった。労働は、一切しなかったのが支配者の歴史。

 

学問や思想は、支配者の道具として庶民に利用された。実学が重視され、生産性のない学問などは、低くされた。

 

少し話が飛んでしまいましたが、大陸の政治体制が、都市化に準ずるように変わったのが殷周革命。その時代から、人間の政治の世界において、初めの2つの対立が激しく戦った。

 

農民というのは、底辺の庶民層というイメージが強いが、それは集団生活をしなければ生きてゆけない階層だったからです。信長にしても一番怖いのが農民の反乱だと話していたという。ではなぜか。

 

当時の農民、主に稲作農家というのは、男女とも力仕事が主でした。沼のような泥の中を胸辺りまで沈みながら苗を植えていったり、さらには、重たい米俵をいくつも運んだりするように力仕事と集団で行う作業だった。その集団で行う作業で一番怖いのが怪我と死です。一人でも労働者がいなくなると、それだけ他一人一人の作業に負担がかかる。農民の最大の任務が、争いを回避すること。

 

信長や他の大名等が、一向一揆の宗徒にてこずったのも、当時、農民として働いていたいわゆる本百姓とものち言われる、農業を主として労働していた百姓の不満が最高潮に達した時代だったからかもしれません。いわゆる現代でいう原住民系の民族。もともと争いを回避するために人間が必要とする食糧を作ることによって生きてきた人達。力と戦闘能力に関して武士といえども、そう簡単には勝てない。孫子の兵法のような策は苦手ですが。

 

彼らが武器を持つと怖い物なし。だから刀狩り令を秀吉の時代にだした。たぶん、信長もしていたはず。尾張長島などは、浄土真宗の自治村だったために、当初信長は、それを認めていて対立していなかった。しかし、そういう自治村が、他の大名とつながり、勢力を広げようとしたから信長は、徹底的に長島を攻撃した。それは、信長に敗れた土岐氏がそこへ逃げたからです。土岐氏の残党と自治組織が、信長に立ち向かったのが原因です。

 

浄土真宗教団の宋祖とされるのが、覚信尼。

 

親鸞歿後、親鸞の弟子たちの布教に際してのまとめ役となり、浄土真宗教団の発展に繋がった。

母は、越後国の豪族三善為教の娘。親鸞の越後・関東での布教に同行した。その末娘が、覚信尼で常陸国の出身とある。現在の茨城県南西部。

 

本願寺の歴史

本願寺の歴史については、上記wikiに譲るとして、その中で重要なのが、本願寺の本尊です。当初は、帰命尽十方無碍光如来の十字名号を本尊としていた。しかし覚如は、新たに木造の阿弥陀如来像を本尊にしようとし、高田門徒と対立した。十字とは、古代では奉るという表示です。このような表示は、日本の縄文時代から巨石遺跡で見られる。

 

親鸞の東国巡業によって多数の弟子たちが東国で活躍し、布教をすすめ多数の門徒集団組織が出来上がっていた。浄土新種の他派が、東国で勢力を広めていたが、京都では、比叡山延暦寺の勢力が強く、思うように布教ができず、教団という組織さえ難しい。やはり比叡山延暦寺の協力なしでは、組織運営が難しくなった。そして比叡山延暦寺への忠誠と念仏の禁止を条件として存続を許されるということで青蓮院の末寺として活動することにした。

 

どういう理由かはここではとりあげず、素直に青蓮院の庇護を受けたということにします。その時代ではないが、青蓮院の僧呂となっていたのが、若かりし頃の足利義教です。

 

本願寺とは関係なく、東国では、親鸞の弟子らによって拡大していく。本願寺も負けじと布教に励むようになるが、その分、本堂を建てたり、仏像などを仕入れたりする費用がかさむようになり、財政的無理が影響し、蓮如が継承した当時は衰亡の極みに達していた。蓮如が継承したころは、京都は土一揆で騒然としており、賀茂川が餓死者で埋まるほどの大飢饉が発生していた。さらに諸国は戦国時代へと突入。

 

荘園領主の没落により、農民の地位が向上し、民衆が力を持ちだした。農民の地位の向上によりそれが下生信仰と結びつき自治的な惣村ができるようになる。そういった自治的な惣村を教化したのが蓮如の布教です。

 

自治組織に人が集まり、それが強大化することによりどうしても地方の守護職は、その力を利用しようとする。浄土真宗も弟子らによる派閥が多数できており、当時の守護等が、その派閥を利用し、守護の相続争いにまで利用されるようになる。利用されたのが、一揆です。

 

ただ、もともとは親鸞聖人の布教から始まった弟子らの教団。しだいに争うことが無意味だとわかるようになる。もともと本百姓というのは、争いを好まぬ集団。農業の生産性が上がれば、もとのようにおとなしい土民に戻る。

 

特に源氏政権になってから、地方の役人に源氏勢力の武士が役人に派遣されてから、農民の不満が顕著に表れるようになった。石破自民党政権の人事をみてわかるように、それまで不遇の立場にいた議員は、政権をとると一気にそれまでの不満をだそうとする。これからは俺らの時代だとね。

 

当時の源氏政権から派遣された役人は、当時の本百姓をわがまま放題に利用した。農繁期にもかかわらず呼び出し、よなよな宴会を開き、農民を奴隷のように身の回りの世話をさせた。これでは、農民の不満がたまるのも仕方がない。また、そういった農民の不満を利用し、守護職争いを有利に運ぼうとする武士までも現れる。

 

人間社会とは、表で現れる事象は、単なる事象であり、単なる事象が、その後複雑に交わり一つの時代へと形成されるのかもしれないね。親鸞の東国への布教活動が、多くの弟子を生み、弟子の中から多くの教団が生まれ、その教団から民衆が支配者に対しての解放運動のささえとなり、解放運動が守護職や朝廷に民衆の行動に恐怖を抱くようになり、弱者に目を向けることが大事だということを知るようになった。一人の僧呂親鸞の布教が、社会変革の思想的原動力へと変わった。

 

こういった下生宗教が、守護職や朝廷の意識改革を呼び、信長が登場する戦国時代へと向かう。

 

もう少しこの時代の一揆の考察が必要の気がしますので、次回へと続きます。

 

平清盛による平家政権から日本列島に貨幣経済が浸透し、貨幣経済から権力の移行が朝廷・貴族から武士へと移行。さらに南宋から多数の移民が日本へ上陸し、下生信仰が、中国大陸から日本に伝わり、虐げられた農民等が言葉を知り、宗教という思想言葉を利用しながら地位向上に向かった。行動した者には、その時点ではわからないが、わかる人が動かしているのかもしれませんね。

 

この一向一揆の部分は、既存の宗教組織と深く関わるので当初信長の考察には、深く立ち入ることはしないように考えていたんですが、新たなりワクチン問題が現在登場していますので、少しこの日本におきていることを再度俯瞰してみることが必要かもしれないということで、日本人が日本人を知るということでもう少しこの部分を考察していく予定です。ここまでタイプを打つと、どうしても指が痛くなる。

 

 

ではごきげんさんで。