こんにちは、元気ですか(・・?

 

太陽フレアの影響かもしれませんが、ちと指の痛みが激痛に変わりそうになりましたので、休憩しました。手術で指の痛みを消したはずなんですが、たまにこういうこともある。

その代わり、日々の出来事などのニュースのアップ機会が増えました。

 

ニュースの中で、信長の考察に関連する事変がでてきたので、少しここで紹介しますね。

嫌がらせについて話します。

 

 

上の動画の宣伝ではないのであしからず。

世界の歴史というのは、調べていくと基本的に差別、格差というテーマの繰り返しのような気がする。「財務省をぶっ壊して、日本をとりもどす!」、「選挙妨害」「暴言」 もちろんやってはいけないことと知りながら、 なぜ彼らは「やりたくもない」のにやるのか?

ということで行動の真意を問うているね。

 

政治とはどうして始まったか、そして政治とはどう利用されたんでしょうかね。

政治の基本理念は、

 

「弱者に寄り添う姿感じる」陛下に講義した大学教授が明かす、陛下の被災地への思いとは?天皇陛下あす64歳の誕生日|TBS NEWS DIG

弱者に寄り添うことです。動画の主を批判するわけではないが、財務省をぶっ壊してどういうシステムを形成し、どういう人々を助けようとするのか、政党でいくら正論を並べても、弱者を懲らしめてどうするのということになる。立花孝さんが立ち上げたNHK党は、NHKに批判、不満がある人、集金に困っている人などの代弁をし、違法な集金体制で困っている人を助けている。さらに党の資金までも奪い取られてもNHK党で政治運動に参加している職員の面倒まで現在見ているね。そしてその寄付は、集まっているようですし。

 

財務省をぶっ壊すだけなら、別に財務省に批判するだけでなく新しいシステムを提案し他を突っつけば自然と倒れるし、政党を立ち上げるんならばまずは弱者に寄り添うことが重要だと思うんですがね。

 

信長の戦いも基本的には格差訂正の社会運動だった。天智天皇・天武天皇・藤原不比等の時代も基本的に格差訂正社会運動だった気がするね。

 

世に聖王として、ユーラシア大陸には、夏の兎・殷の文王が古代にいる。そして後世それに並び立つのが殷を滅ぼして周を立ち上げた武王。

 

聖王とは、wikiによると、徳があり立派な政治を行う王・君主を意味する。立派な政治とは、何か。

 

世の中には、善と悪とがあるが、悪とは何か、善とは何か、その規範は、古代の人々や王族は、どう考えていたんでしょうかね。物を盗む者を悪ととえば、人を殺めるのを悪ととえば、人を妬むのを悪ととえばというように、古代人は、どういうことで判断したんでしょうかね。

 

殷の末期の時代は、たしかに政治というものが荒れだし、王朝を替えるしかないところまで乱れたようです。その乱れを止めるために周の武王は、統治の方針を変えさせた。それが、恫喝と恐怖。

 

殷の時代末期の諺に、酒池肉林という言葉がある。どうしても時代が進むにつれて殷を形成したエリート集団である貴族は、軟弱化する。腐敗も蔓延り秩序などもない時代へと突入していった。いわゆる貴族というのは、当時から殷王国を形成した者等の子孫。当時は、少数の特権階級でもあり、特別に貴族内で通じる読み書きなどで支配していた時代。現代でいう御用学者どもの集まり。

 

当時は、飲酒というのは、神事の行為だった。神事というのは、当時は犠牲を捧げる儀式。現代のようにわきあいあいといった状況で飲む会合の場で飲む行為ではなかった。周の武王の時代から、厳罰主義をとった。厳罰主義というのは、皇帝の逆憐に触れた者は、皆殺しということです。白黒は、皇帝自らが判断する。よって周囲が混乱することをよしとしなかった。

このことから起きたのが、過剰殺戮。それが絶対服従。そして生まれたのが礼儀。礼儀で恭順ぶりを人前で派手に見せつける儀式。罪人は、人前で処刑。これも儀式とし、人々の注目を浴びせる。

 

厳罰主義から生まれた国家が、中央集権国家。周の時代は、酒宴は禁止されていた。当然、酒宴を開けば死刑。ネットなどで海賊国家といわれているイギリスにしてもたしか18-19世紀頃までは、数シリング盗んだだけで死刑だったはず。

 

絶対服従による中央集権国家というのは、現代でいう同族企業。血族の紐帯。その他は、すべて奴隷もしくは農奴となると時代が発つにつれて王族は、お飾りとなり世俗のことは重臣に任せっきりとなる。絶対服従国家になじまないものは、当然他へと住む土地を変えようとする。周の体制が、周が平定する中原から逃亡しだす移民を生み出す。いわゆる難民となり、各地へと集団脱出する。当然、中原に存在する周は、周王族に恭順する者ばかりとなり、そこで平和が存在しだす。その平和があだとなり周囲民族の侵入に対する恐怖もなくす。その後、周国家の無力が、他国の侵入におかされ誰の目にもあきらかになってくる。周王族が王族秩序として養ってきた美徳も、王族をお飾りにした役人・上下貴族等によってその美徳仮面も投げ捨てられ、世情は、腐敗・賄賂・陰謀などが渦巻く社会へと変身していった。

 

つまり社会的・経済的な共食いの時代へと突入。しかし、現代でいう金持ち等は、時代の先を読む癖をつけていた。生存さえ脅かされる時代への突入していったために、弱者や貧者におカネを惜しみなく与えた。それが用心深さ。共食いの時代というのは、支配者と若者世代との関係の時代。それが後現れる春秋戦国時代。階級的自殺の時代です。

 

この時代、ずる賢さは、必要十分条件だった。生き残るために。大げさな礼儀という有徳な仮面の厚い顔の裏に黒い心臓を持たなければならない時代。

 

戦争が始まれば、重要なのが食糧。そして政治は、陰謀と賄賂、ペテンと欺瞞で動くようになり、諜報・調略・外交・戦略(軍)が、陰謀家の手に委ねられる。そして生まれたのが暗殺。いわゆる兵器は役にたたない。しかし、調略で失敗すると軍隊、それも大軍を動かすこととなる。そこで生まれたのが、軍将の売り買い。いわゆるどうやって軍将を寝返りさせるかとの争いとなる。

 

そのような社会から生まれたのが教育である。王族や貴族等は、世情や領地の管理を任せるために人材が必要となる。一般の庶民の中から、或いは庶子を含む一族の中から若者を集め、支配者に有利な教育を施し、優秀かつ見込みがある者にまかせようとする。基本的に王族や貴族は、何もしたくないというのが本音。自分の好むことをする主義。

 

そこで考え出されたのが、士大夫という地位。王侯や貴族は、権力と栄光を手に入れ、士大夫は、手腕と才能を手に入れる。すると、能ある鷹は、抑えがないと支配者の敵へと変わる。出自の卑しい者が、いわゆる庶民が、諸侯を支配するようになる。そこで生まれたのが、匪属となった役人。横柄と卑屈と残酷と媚。役人らが主人に造反しあっさりととってかわることが珍しくない社会となる。ずる賢い役人の中には、役人の間にしこたま同様な性質をもつ人脈を築き、いろんな情報を手に入れて、国の倉庫(予算)から吸い上げることを考える。商人の新事業などにこっそりと投資をしたり、不法な利益で肥え太った資金を、商人等の投資資金として用立てたりした。

 

そうやってのし上がった一例が、秦の始皇帝の時代の呂不韋。呂不韋は、本職は、ブローカー。いわゆる現代でいう総合商社のオーナー。官位につけば陰のオーナーとなり、本職の商人等と利害関係が共通し、役人の地位を利用して商売敵に干渉したり、一般の何も裏を知らない商人等を食い物にする。こういったブローカーは、常に首が落ちる危険にさらされていたが、たくわえた資金、黄金の壷が消えることはない。

 

商人というのは、権力を得るために富を求め、役人は、富を得るために権力を求めた。両者の戦いの中で生み出されたのが法律。法律を作り、武力である警察と軍隊を支配できるようにした。その支配者が、役人。

 

中国大陸の役人の支配原理は、商人を一番低層の階級とし、徹底的に絞り、食い物にすること。商人階級は、政治を金権政治にさせ堕落させることで自衛した。

 

階級の一番上の層と一番下に位置する層との戦い。国に腐敗が進むと次第に他国の侵入にあい、危険にさらされる。危険にさらされ、国力が落ちたとわかるようになると、次第に逃げることができる庶民は、逃げ出す。国に見切りをつける。低層の富を持つ商人は、強欲がばれないように弱者や貧者にためた資金をばら撒くことで罪滅ぼしと考えるようになり、王族や貴族は、弱者・貧者に対して温情を与え、寄り添うことで罪滅ぼしを考えるようになる。つまり、弱者・貧者に寄り添うことが政治の本質となる。

 

中国王朝の性質は、厳罰主義です。賄賂をもらった者よりも賄賂を与えた商人を嫌い、捕えた。そしてその商人一族を皆殺しもしくは未開の地へと追放した。それが当時では、華南であり、中原の東の半島や島々。古代の越の住民は、刺青・断髪の風習を残し、茅草の家に住む大陸では野人扱いした集団だったそうです。現代の浙江・福建・広東あたり。

 

人間の邪悪ぶりを熟知し、その立役者になることの非常な危なさに気付いたのが范蠡(はんれい)。

「自惚れを克服した者には天の救けを、災いを福に変えた者は、人の救けを、質素に暮らす者は、大地の救けを得られる」

 

野人扱いされた集団も范蠡(はんれい)の言葉を模範にしのちに華僑の店の肖像画として飾れれるようになる。これが現代の華僑の重臣の姿勢です。

 

上層の階級も低層の階級も権力・富を持ったとしても結局行きつくところは弱者に対して寄り添うことです。それがなければ次第に国であろうと政府であろうと企業であろうと滅ぶということです。弱者に寄り添わない政党は、弱者という味方がない以上、徹底的に叩き潰されても仕方がない。NHK党にしても令和の党だったかな、山本さんの党、障害者を全面にだしてるね。そういったことを全面に出して、弱者を味方につけないと、支配者や権力者は、当然つぶしにかかる。それがあれば、叩こうとしても叩けない状況に追い込まれるからね。

 

織田信長がよく使う言葉に

「根切りにせよ」というのがある。

 

酒池肉林、腐敗、賄賂など悪事を働く者、たくらむ者などを目につけば切り殺せと言う時代だったかもしれないね。すると、多くの富や高利益を甘んじていた階層は、次第に弱者に目をむけるようになる。暴利をむさぼらなくなるし、やたらと理由もなく人を殺めることもしなくなる。

 

徳川家康は、死ぬ間際に作り上げたばかりの名刀を近習の武士に渡して、悪人を探してこの名刀で試し切りにしてこいと命令した。そして悪人を切った名刀を、徳川家康とともに埋葬させた。刀というのは、悪人を懲らしめるために使うものだということですね。

 

織田信長にしても徳川家康にしても戦がない世、殺し合いがない世をなんとか形成したいという気持ちがあり、そのために悪を懲らしめることの必要性を感じていた。そして悪を懲らしめるために、武士に刀を持たせた。むやみに人を殺めるためでなく、悪事をしたものを懲らしめるために。そしてもう一つの階層に刀を持たせた。それが任侠団体であるヤクザ。

 

江戸時代のヤクザというのは、悪事をする集団ではなかった。しかし、庶民階級であるいじょう庶民としては見下げた人殺し集団としての役割があった。つまり、目に見えない悪人を懲らしめるため。暴力団といえばそうだが、弱者の味方をしその弱者のために道徳にあった殺しは認められていた集団。必殺仕置人かな。

 

当初はね。しかし、平和な時代が続くとどうしても軟弱な時代へと入っていく。それによって少しづつどの階層に気のゆるみがでてくる。

 

華南の地の歴史がつかめましたかね。歴史上一番大きな影響を与えたのが秦の始皇帝の時代。始皇帝は、呂不韋の事件があったからかもしれないが、商人を嫌っていたらしい。よって、華南の地に、悪徳商人や犯罪人をその地へ大量に追放した。そうすることで皇帝や役人にもメリットがあった。それが借金の帳消し。そういった目に合いながらも独自で経済を主として発展していったのが華南沿岸部。

 

古代は、商人階級は、弱者であった

 

しかし、中国大陸というのは、歴史財産の宝庫といっていいくらい知識の宝の土地であるが、王が変わるたびに、或いは動乱のたびに過去の歴史を消し去る。よって、歴史の積み重ねに信憑性がかける。その歴史を伝え残しているのが、移民であり難民である子孫。その子孫が多いのが、たぶん日本列島でしょうね。それだけ賢い者が多いのが日本の住民であるがために、情報閉鎖をしたり歴史を書き換えさせたりしたりしているのかもしれませんね。そのわりにどこからか偽書といわれるような書物がでたりしながら、真実に近い情報が表にだされる。

 

また、前回の信長考察のブログの続きから少し脱線したみたいですが、少し華南の性質も入れておいたのでいいかな。

 

元明天皇の時代に使用された和同開珎は、物々交換を主とした当時の日本社会では流通しなかった。貨幣が生物であるということを理解していなかったともいえる。このブログでは、西洋の銭貨の歴史を以前記載しました。その中で、西洋諸国は、金貨、銀貨を使用し流通したが、金貨は、死に貨になったためにゴールドを絶えず追い求めた。その原因が、アジアとの交易。アジアは、ゴールドを富とはみなしていたが流通を求める貨幣とみていなかった。つまり、ゴールドは、アジアへと滞留された。錢貨は、流通しているからこそ生物です。生物であるからこそ私銭などの考えられるし、偽装、悪銭なども出回る。藤原不比等もこの政策に加わったようですが、その知識がなかったのかわかりませんが、蓄銭叙位令という死蔵を招いた。流通するのを目的とする政策と矛盾するようなことをする。当然一部の者が、多くの銭を手に入れ、中抜きを大きくして下の者に渡すこととなる。或いは、下の者を雇い賃など払わない輩も増えてきたに違いないね。いくら政府が量的緩和をしても一部の所の懐にしか集まらないなら、流通経済とはならず死蔵となる。貯まっていく預金通帳を眺めることしか喜びを感じない一部の生産性に投資しない労働者や生産性のないものに投資する動きばかりを追う資金の持ち主等に資金を渡しても死蔵になるだけ。

 

そういった死蔵を大切がる国民を死蔵を担保にしてお金を運用しようとする輩が、なんとか生き金にかえようとする。外国にいくら投資資金があろうともその資金の運用は、外国人によって運用されるようになる。実質、その資金は、貯蓄者である者の物ではなくなっているかもしれないね。

 

中国大陸では、すでに殷の時代から銭が使われていた。当時は、タカラ貝。紀元前1500年以上前です。その貝は、インド洋でしか産出されないものだった。世界は、閉鎖された社会ではなかったんですね。鉱物が錢貨に変わったのは、たぶん斉国が青銅銭などを発行してからでしょうかね。

 

貨幣経済に関しては、日本列島の住民になっていた知識層は、知識があまりなかったということでしょうね。それが現代でも続いているかもしれない。

 

 

いかにも先物取引の起源が、日本からだといわんばかりの記事ですが、現実はどうでしょうか。こういう取引を考えたのも移民の知識だった。日本は移民から多くのものを吸収した国民の集まり。この先物の結果、どうなったかご存じでしょうか。藩札が刷りまくられた。その結果、徳川幕府体制が窮地に陥り、維新へとつながった。その歴史教訓を知っているから、当初大蔵省(財務省)は、非常に先物取引をすることに警戒していた。機会があれば自分の考察を記しますね。

 

現代社会は、紙幣本位制です。その歴史は、西洋諸国では、17世紀以降、しかし、中国では、11世紀宋の時代、いや唐の中、末期から公的紙幣として試されていた。本格的となったのが元の時代から。

 

歴史上、殷・周の時代から貨幣の流通の仕組みは作り上げられていた。そして秦・漢の時代で制度化され、魏・晋・南北朝時代、その後の隋による統一王朝ができ、隋の煬帝(ようだい)による江南地域の開発と大運河の建設・整備による商品経済の発達がきっかけとなり、その後の唐による多民族・多宗教による経済発展により、貨幣の流通量の拡大がある。

 

そこでおきたのが、商品取引量の著しい増大です。商品取引量が増大したことにより、銭貨の使用量も増大した。商品取引量に見合う鉱山の開発は追い付かなかった。当時は、銅鉱・銀鉱・金鉱を一つ発見されただけでも元号を改める位の国家的事件ととらえられていた時代。すでに中国大陸には、ブローカー商人らが地位をきづいていたこともあり、金属貨幣には、不便性とともに安全性にも不都合が生じていた。

 

そのために考案されたのが、手形。すでに唐の時代に交換手段として手形を証券とするシステムが考案されていた。世界は、まだ地域経済主体の世情であったが、唐は、地域経済システムの中で抜きに出るほどの大きな地域経済を達成していた。唐の時代の手形は、三種類存在した。

 

為替手形・約束手形・小切手

 

そしてこのような仕組みをよく利用したのが茶商という商人。

 

ここまでで。ちと疲れた。この続きをご期待の方は、次回もよろしく。

 

番外として少し、前回のブログの続きを

 

中国三国志演義に登場する架空の人物に南蛮にある烏戈国の王「兀突骨」(ごつとつこつ)の話がある。身の丈12尺(後漢の尺で276CM、魏・晋の尺で288.2CM)の巨漢で、体が鱗で覆われている。穀物は食べず、生きた獣や蛇を食べる。諸葛亮も2M近い背丈があったらしく、結構大柄な民族だったのが「兀」に現れているのかもしれませんね。日本の武士(農耕民族)からその姿をみれば足のあたりが自分等の背丈。当時はね。諸葛亮が、兀突骨を倒したのも火攻め。すでに中国では当時に地雷などがあったんですかね。

 

中原の民族にとっては、兀のパーツをもつ民族は、全く異人種と認識していたかもしれません。

 

チンギス・カンと源義経説。これも少し。

この両者が、同一人物かどうかということが本来はどうでもよく、元(モンゴル)と源氏と関係があるかが重要ですね。自分の説があるんですが、この説はネットにはないので、少しためらっている。自分のブログは、日本の秘密を暴くことではないからね。もともと日本列島は、日本海を湖として大陸とつながっていたからね。さらに日本列島の中心は、現代の北方列島から北海道、東北地方を中心に比較的温暖な気候をしていたようです。欧州などの諸国にしても東の国というと日本、アメリカ大陸の米国のある程度の知識層に東の国というと日本と答える。古代の世界地図は、東が頭にして書かれているからね。その中心が日本列島。西の端を敦煌とし、東の端を日本の青森にしたかもしれないね。その一帯は、元は同じ民族の支配地だったかもしれない。それがわかれ、言葉もわかれ、よく似た風習が残った。

 

クビライの母親は、ソルコタク・ベキ。

 

 

ソルコクタニ・ベキは、荘聖皇后というのは諡。ケレイトの出身。モンゴル系テュルク系の遊牧民の部族。カラスのモンゴル語。モンゴル高原中北部ハンガイ山脈付近を占有していた。起源は、キルギス帝国をモンゴル高原から駆逐した九姓タタルの最有力集団。11世紀以降は、キリスト教ネストリウス派の僧呂によって改宗させられていた。

 

 

 

出雲王国の大国主命の子孫だとされた斎藤さんの本を少し読んだんですが、出雲族の風習とケレイトの風習が全く同じだったような気がするのだが、その資料が見当たらないので次回へ。風葬もしくは鳥葬は、出雲族の風習らしく、ケレイト族もたしか同じだったような資料見つけたんですが、現在見当たらない。少し捜してみますね。まちがっているかもしれないから。チベット族は、その風習だったそうです。

指に痛みが走るので、集中力がなくなってきた。すいません。

 

次回もう少し詳しく、ネストリウス派の件もね。

 

ではごきげんさんで。