こんにちは、元気ですか(・・?

 

ここ最近Xで移民問題を取り上げている記事が多いですね。前回までの元寇の考察は、一様我々が習った教育に基づくのとWIKIを参照として考察していきました。その考察が本当に正しいかどうかもう少し深堀してみますか。

 

元に服属していた女真族に対して日本のある程度外交特権のある人物、若しくはグループから元とのよしみを求めたことがはじまりだった。元のクビライの演説を信じればね。

 

とりあえず、何故江南軍范文虎が、兵卒10万人を見捨てて逃亡、そしてその後死罪を逃れ、その他の諸将は、罪にとわれることがなかったのでしょうかね。

モンゴル帝国は、チンギス・カンから始まり、オコデイ、そしてクビライへと支配を継続させた。チンギス・カンは、主に子孫たちに漢の学問を教育させた。教育者は、主に漢人や金の女真族に任せたのかもしれませんね。ある程度官僚が描く王の姿を学ばせたに違いない。するとどうなるでしょうか。武人は、負け戦になれば死罪もしくはその責任をとり自ら死を選ぶ。しかし、官僚などの文人は、決して死を選ばない。政策が失敗したとしても左遷でおわらせようとする仕組みを作るはず。クビライは、内政、外交などについては、自分で判断できなくなるようにされており、常に官僚などの文人に頼る、側近に依存する政治システムの中に突っ込んでいた。

 

范文虎は、台風などの自然現象で撤退したとしても自分は文官だから左遷はされるが、死罪にはならないと確信していた。文官を死罪にしたならば、他の文官は恐怖し、クビライに意見や考えを言えなくなるからね。そして范文虎の配下の兵士は、見捨てて、他の諸将の兵士には、兵卒を見捨てさせなかった。范文虎は、死罪をまぬかれた故に、他の諸将は、兵卒を見捨てなかったという利益を与えたことによって、他の諸将は、罰を逃れることができた。すでにクビライ政権は、完全な文官主導政権になっていたということでしょうね。

 

さらに、当時の南宋の朝廷は、元に崩壊させられており、たぶん闘いのせいで田畑も荒らされていたのかもしれない。その上に日本討伐のために兵卒として南宋の庶民を募集しても集まらない。首に縄をつけるしかね。しかし、日本で田畑の仕事をさせるという目的ならば兵卒は集まりやすい。初めから、南宋で募集した兵は、日本で農業をするということで募集したんじゃないかな。

 

ここで動画紹介。

中澤弘幸 先代御家元 【 第5回平安サロン 2023年5月 】<11>老人による人生の捨て台詞

清水、魚住まず。

人間社会も同様、善もあり悪もあり、そのバランスが重要な気がしますね。そして悪事がばれたら、けじめが必要。今の日本にはそのけじめがないようにみえるね。

 

中澤弘幸さんは、調べてみると裏天皇なる人物の一人といわれているらしく、あるブログをみていたらこの人が紹介されていましたので、とりあげてみました。このブログでは、結構麻生さんを批判している記事をとりあげていますが、麻生さんとたぶん同じ世代でしょうから、麻生さんもこのように言いたいこといってくれたほうが人気もでるし、尊敬されると思うんですがね。

自分は、このブログで発信しているのは、表の地位は、少なくとも50歳以下に譲れといっているんですがね。もっと厳しくいえば40歳以下。その上は、けじめをつけさせるようなことを発信したほうがいいし、こういう人がストなども参加すれば地位のある人間は動きやすくなる。そして、もう二つつこの人の動画を紹介。

 

 

他にもたくさんの動画がアップされているので、時間のあるかたはどぞ。自分も最近この人のことを知ったのですが、サイトでシリーズとしてアップしています。この三つ目の動画を見たときに、豊臣秀吉が半島討伐へと向かった理由、そして加藤清正が、半島の武民・庶民関わらず、鼻や舌を切り取って塩漬けにして秀吉に送った理由でもあるのかなと考えましたね。

 

秀吉は、中国大陸からの移民であることは、李氏朝鮮の史料に載っている。たぶん、どちらも先祖は、呉もしくは越の移民だったかもしれないですね。元寇第一次討伐の時に、対馬などの島民は、ひどい扱い、殺され方をしたそうですから、その恨みがあったんではないですかね。その中の生き残りが、両者の先祖だったかもしれないね。

 

しかし、中澤さんのような人が、政界や実業界の裏側にいるのに、現在の政界・実業界の現況がどうしてこんなに疲弊しているのかわからないですね。ただし、少し不安な面もある。

平和でなく平安を好むという言葉。言葉そのものはいい言葉なんですが、平安という言葉は、平安時代のことを指しているんでしょうかね。その言葉自体、たぶん明治からの教育で平安時代のことをさしているとしたら、その時代は、公家にとって安の時代だったように見える。信長の時代は、安土。対象が土、いわゆる土民。土民にとって安の時代を目指そうとした時代と解釈できる。公家以外は、虐げられた時代を信長、秀吉、家康が最終的に解決した時代。

 

平清盛の時代から、朝廷などの公家と武家との権力争いが、現在でも続いているのかもしれませんね。

 

世界的洪水時代は、中国大陸は、主に人的移動が、南から北へと向かった時代。そして我々が知るいわゆる殷の時代からは、北から南へと移動していく時代。前漢の時代は、華北と江南の人口比は、5対1だったようです。後漢の時代にはいり、人口比は、2対1になるくらい江南の人口が増加した。これは、農業の発達と関係する。灌漑農業の開発により農作物の生産量が増加したことが大きい。のち三国時代となり呉の孫権の時代に晋に滅ぼされましたが、晋もまた北方民族の匈奴に滅ぼされ南へ逃げ南京を都にした東晋が再建されます。その後、五胡十六国という乱立の時代へと入ります。その時代に、さらに北方から南へと逃れる人が増えていきました。

 

主に南に建国した国は、北方からの移民の処遇が問題となります。いわゆる難民問題。といっても華北から逃げてきたとしてもいずれ華北が安定に向かえば、戻ろうとする意識の難民が多く、こういった人たちを仮住まい移民ということで「僑民」(きょうみん)とよばれていました。当時の税システムは、土地を持っているものから徴収しています。よって、僑民に土地を与え戸籍に載せ、徴税の対象とした。当然、移民の中には、華北の豪族も流れてきており、彼らは所有地から水運によって都へ運ぶ流通経路を発展させた。華北などの帝国システムでは、主に土地開発・水利事業・商品流通経路などは、公権力の下でおこなわれていたが、江南地帯では国家秩序などなかった。つまり、国家システムとは関係がない市場原理によって江南は経済発展していった。経済と政治とは必ずしも国家の両輪にはならなかったし、同じ方向へと向かわなかった。

 

そういう歴史があり、中国文化は、江南を中心に広がり育った。現在でも経済の重点は江南地帯ですよね。これは、隋の時代から現在にいたるまで同様で、水田開発から海上貿易、さらには国際経済までもが中国大陸の拠点となった。現代でも政治の中心は、華北。いかに大陸が動乱となったとしても政治の中心を華北にもっていった。しかし、文化・経済の中心は、現代でも江南が中心となり、江南が栄えることによって中国は発展していった。

 

では、南宋の時代の移民を深く考察してみますか。

その時代は、金という女真族の華北支配から始まります。華北から逃れてくるのが移民の中心。といって南宋は、その移民を嫌っていたわけではない。むしろ歓迎していた。

●兵隊増員などの軍事的理由

●淮 南・湖北を中心とする荒田の生産力回復のための労働力

●金に対して政権と しての正当性を主張するための宣伝効果

 

主にこういった事情で華北から江南に逃れてきた移民を「帰正人」と呼んでいたといわれている。主として、遼・金・西夏・偽斉から逃れてきた人々を指す。そして移民にもそれぞれ来歴・出自歴などがあり、それにあわせて「帰正」「帰 明」「帰順」「帰朝」「忠義人」などの名称が存在し、その一つ一つについて明確な定義が存 在していた。江南地帯というのは、開拓地。移民を受け入れやすい土壌はあるけれども、基本的には、技能などの才ある人材ができるだけ欲しい。強いて言えば、華北から逃れてきた人を帰正人、西夏・契丹などの方面から逃れてくる人を帰明人と区別されていたそうです。

 

これもある程度詳しい説明が必要なのかもしれませんが、自分の考えとしては、金というのは女真族主体の国であり、宋は、王族と一部の貴族が女真族主体となり他漢族という、いわゆるある意味金と宋とは兄弟族のように見ている。西夏・契丹などは、その意味で別民族となり、のちに建国となった明にしても血筋としては、西夏・契丹などから移民してきた人が中心として明を建国したということになる。よって大きく分ければ、中国大陸内では、女真族と西夏・契丹族との対立が古代から存在し、その対立の中で漢族がいる。そして同じような動きをこの日本列島の中で同時に行われているかもしれないね。

 

燕山或いは山西より移民してきた人々を帰朝人と呼んでいたようです。江南地帯というのは、移民の出身地域別、階級別とにわけられ連合体として華北とは違う政治体制をしなければならない地域であり、それをまとめるには、強い指導者の下でしかまとまらない土壌であった。

 

南宋にとっては、もともと宋王朝の支配民族としてついてきた者達とそれとは違う移民との区別をした政治システムをしていた。どうしても南宋としては、華北からの流民との差別をすることで宋王朝の優位性をしめしたのかもしれませんね。そういった歴史もあり、南宋の王族と官僚は、なによりも住民の反乱が怖かった。そういった事情を、元の官僚となった南宋と金の官僚は、クビライに強く説明していたでしょうね。北と南とでは、国家性質が全く違うということを。

 

大陸商人とすれば、強い者に大陸を制覇して大陸の流通経路を一つのシステムとして稼働させれば経済も大きくなり、利益も大きくなる。チンギス・カンの戦闘の強さを知り、大商人のネットワーク作りのためにモンゴル人を利用したともいえる。

 

そして日本列島を見てみますか。その中でも対馬は、古代から日本とユーラシア大陸の交通の拠点だった。中澤さんの動画が説明しているように、呉越の時代、呉越の移民が逃げて日本列島にたどり着いたのが、志賀島だった。日本では、志賀島と久高島という海流が運ぶ二つの拠点が存在した。

 

日本の律令制度では、対馬国司或いは島司として国司が存在した。魏志倭人伝によると、対馬国として倭国の一つとして登場しており、邪馬台国に帰属したことが記されている。白村江の戦い後、防人と烽(ともひ)が置かれており、山城も築かれ外冠の防備をしていた。そして、新羅の入冠(新羅の海賊行為)、刀伊の入寇などがあり、しばしば戦闘行為が行われていた。対馬を津島とも記されている。さらに日本で初めて銀が産出された場所である。それが対馬銀山。

防人は、東国から三年交代で兵士2,000人が派遣されており、757年(天平宝字元年)1000人に変更された。平安時代の桓武天皇の時代になると軍団制は廃止されたが、壱岐・対馬の両国に対しては例外として防人は置かれていた。この島は、たびたび半島の海賊、主に新羅の海賊が襲ってきており、戦火に合う地域だった。

 

936年、高麗王朝が半島を統一。この頃から日本(大和朝廷)と高麗は国交成立を目指していたが何らかの事情により断念。対馬の実権は、当初朝廷・公家であったが、その後藤原氏を背後にもつ源氏勢力が持ち、平氏が擡頭した。

 

執権北条時政の時代、当然対馬の権益を手に入れるはず。それまで対馬国司として派遣されていたが、北条時政の時代に対馬守護が派遣され、対馬国司の関与を排除した。そのことにより対馬に出入りする貿易船から徴収する入港税を独占していた朝廷から奪った。

 

従来は、外交は朝廷の役目と考えられがちだが、本来は、外交までもが北条政権が掌握していた。北条政権は、対馬守護を置いたことにより、日本の朝廷と結びついた高麗との関係に修正を加えたようです。これは比企氏の乱が関係しているかもしれませんね。よって、元・高麗からの外交文書は、朝廷を通さずにまずは北条鎌倉幕府に伝達され、朝廷は、北条幕府から報告がないかぎり外交には携われなかった。

 

元帝クビライに大和朝廷からの何らかのよしみがきたとしたら、能登を経由しての闇貿易船から女真族商人へとつながる経路であり、かつ大和朝廷側の外交権を持つ重臣もしくは天皇名でよしみが送られていた可能性がある。いわゆる北条鎌倉幕府はずしで。

 

元ことモンゴル帝国は、南宋と高麗を同時に侵入していた。その中でも南宋は、モンゴルと対抗するために高麗や日本を宋側に引き付けておく必要がある。たとえ高麗王朝がモンゴル帝国に帰服したとしても、高麗国内で内乱がおきるように、南宋は自国と直接接する日本商人といえる倭寇や高麗海賊などを優遇しており、関税などを免除していた。たぶん倭寇が使用した火薬などは、南宋がある程度融通していたかもしれないね。

 

南宋は、モンゴル対策として高麗・日本などの貿易商人を中心として諜報戦略をしていた。南宋としては、高麗王朝が帰順した今、日本がモンゴル帝国に帰順することを非常に警戒していた。だから、クビライが南宋の元官僚に日本討伐を相談したときに討つべしと迫ったのは、こういった事情があったからです。

 

南宋と関係が深い北条鎌倉幕府は、モンゴルの招致を拒み続けた戦争にまで至ったことは、南宋の計略が成功したかにみえたが、しかし、南宋は滅びてしまった。それでも復活をあきらめていなかったのかもしれません。また宋と金は、このブログでは兄弟国とみている。南宋と金の元官僚で綿密な打ち合わせを陰でしていたのではないでしょうか。

 

平清盛による日宋貿易により、この日本にも大量の銅銭が流入した。銅の流出を防ぐために「倭船入界之禁」が出されていたが、江南は、上記に説明したとおり経済を中心に動く地域、市舶からの財政源に大きく依存しており、銅の流出は目をつむって認めていた。さらに日本からは硫黄という軍需資源を運んでいた。当時日本は、海外に木材までも輸出していた。海の民と山の民は、商売で連携していた。これが八幡の民。日本の森林は、大切な輸出資源であった。宋にとっては、日本からの輸入品は、軍需品としても大変重要であった。

 

主に日本からの輸出品として金があげられるが、やはり重要度としては軍需品となる資源。しかし、元のクビライは、そうみていなかった。つまりクビライは、日本のことをある程度知っていた。高麗討伐は、ある程度日本討伐もねらいにあったということです。南宋と闘っているうちに日本にきづいた。日宋間貿易は、日本の軍需品供給源が中心だった。それをクビライは見抜いていた。そして北条鎌倉幕府は、クビライの狙いが何かすでに知っていた。

 

次に、日本列島内では、宋とはどういう関係があったのか。

 

 

九州沿岸部には、唐房という地名が複数残っている。主にチャイナタウンという意味であり中国大陸との関係が深い地域であり、中世では、中国人居留地を意味する。 福岡県では、宗像郡津屋崎町、福岡市西区姪浜、下山門など、佐賀県では唐津市、長崎県には松浦市大崎、口之津町、長崎市矢上にある。鹿児島県西・南海岸には川内市五代町、加世田市別府ほかがある。各々海の近くにあります。

 

 

平安時代には、博多湾一帯に唐房があったようです。主に中国浙江省寧波(にんぽう)は、日本への玄関だった。平清盛の時代、大宰府や博多津にいた中国人が郷里の寺院に道路建設を寄付した記念碑があります。当時日本に滞在した宋人華僑は、現在も同じように郷里のために利益を送金していた。南宋と日本では、すでに金融為替システムが機能していた。唐房は、東防、当方、東方、当房などと文字の違いもみられるが、九州全体にそのような文字を含む中国人村が九州を中心に存在していた。貿易拠点として博多・箱崎が中心となし、宋人に対して田をあてがい、年貢は免除されたが高価な大唐絹を納めさせた。中国人は、花の模様を好んだらしく、瓦に使用されていた。この地域に外交権力として支配していたのが、比叡山延暦寺。出先機関が、大宰府後方、大山寺、そして筥崎宮寺。

 

唐房の名が見える最初の史料永久4年(1116年)の経巻奥書によると、「博多津長房の大山船襲三郎船頭房」とある。この人は宋人で唐房に住み、大山寺の管理下にあった。この経巻は、比叡山の西教寺が伝えた。中国の生糸を日本に運べば100倍の値で売れたという。北九州博多一帯は、古代から利権争いによる対立が激しく、宋人による金貸しから禅宗内の派閥・利権内部抗争がたえないいわばマフィアの世界だった。その関係からかもしれないが、新羅などからくる海賊が対馬・ 箱崎宮が攻撃目標となっていた。

 

特に博多は、平清盛等の当時では新興勢力の拠点。箱崎が国営港湾なら博多津は、民営港湾。どちらが栄えるかというと当然民営港湾となる。北九州一帯には、多くの宋人の後が確認されるために、主に北九州地域というのは、半島出身者が多いイメージが強いが、当時から江南などの南宋の出身者が多い地域のように感じられる。

 

この地域は、中国大陸からの移民が多い地域のようにみえ、当初は、漢からきた漢人、その後唐からきた唐人、そして宋とのちの南宋からきた宋人というように、大陸の主権が変わるたびに人も入れ替わった土地だったかもしれないね。平清盛以後は、宋との貿易は、縮小もしくはなくなったかのようなイメージがあるが、実際は、毎年多数の宋船が発着していた。

 

特に北条鎌倉幕府時代になり、朝廷の権力範囲は、かなり削られたんでしょうね。元寇の時代の北条時宗政権は、外交から内政までほとんど仕切っていた。

 

当時の朝廷は、唐との交易で権力を維持させていたが、唐から宋に変わり平氏を主体とする武士政権が権力を伸ばしてきた。女真族連合です。

 

まだまだ元寇の日本討伐計画は進みます。以後は、上記を頭に入れて考察していきますね。

ここまでで。

 

クビライは、建国時、王朝名を大元とした。大という文字を好むのが、渤海国からきた渡来人。大とした文字を苗字として使う氏族は、たぶん華北より北の民族が主体でしょうね。そして元。当時のクビライは、官僚にモンゴル人をあまり多く配下においていない。文字を考えるのは、側近官僚。漢人や女真人。

側近らの助言により、中国王朝史において正式の号を一字と呼ぶ原則に倣い、クビライ家の王朝を元と略称された。元という文字がどこからでてきたのか。

意味は、根本、根源、天地間の根本的存在、初めという意味がある。しかし、もう少し別の面でみてみますか。ある人は、源義経が、チンギス・カン説があり、源氏の源から由来したのではないかと推測する人もいる。

 

それはさておいて、字を分析してみる。羌という文字。Π(パイ)の文字は同じですね。羌人は歴史的に漢人・チベット人と雑居し、接触を重ねてきた歴史がある。Π(パイ)+ 一 = 元。

クビライの母親は、キリスト教徒。

ちと長くなって疲れたので次回へ。

 

ではごきげんさんで。