こんにちは、元気ですか(・・?

 

今週は、江東区で衆議院の補欠選挙の修羅場の時期。江東区には、自分の障害の主治医の医院があり、今週診察に行く予定でしたが、選挙で駅前が混雑するかもしれないので次の機会にまわしました。今回の選挙は、15区、江東区の選挙民が選ぶので誰を選ぶか興味もあるけどね。ただね、地方選挙ではなく国政選挙でもね、地元のことを本当に知っている候補者は、須藤さんしかいないようですね。多数決の議会のためにどうしても自民党が同意しないことを言葉で並べてもね、実効性がないようにも思える。現実に15区の住民が、現在問題を抱えていることを中心に運動してほしかったね。

 

興味がある動画がアップされていたのでこの件を少し紹介しながら、元寇の話題へと向かいます。

 

 

 

 

 

 

昭和の敗戦は、日本列島の都市部を中心に焼野原のように何もかもが破壊された。その後、昭和39年に東京オリンピックが開催されるまで急激に復興した。当時は、進駐軍が日本に入り影響を及ぼしていたが、現実に復興に向けて動き出したのは、日本人自身。戦後残っているすべての日本に住む人的資源が復興に向けて動き出した。だから復興が成功した。

 

この日本の復興をきっかけとして、欧州大陸もはいりますが、世界経済が大きく拡大した。いわゆる大きな利益を生む。暴力的な衝撃で世の中を変えることができ、復興、構造調整なども暴力的に改変できることを知った。

 

例えば、江戸時代の武士は、髪型はちょんまげをしていた。一つの日本の文化でもあった。しかし、明治にはいり、その姿は消え去った。服装にしても同じですね。西洋の服装をすぐに取り入れた。もし、その順序が逆の場合、現在の我々はどうなるでしょうか。何百年と西洋の服装を日本人がしていたとしたら。そして急に明日からちょんまげにして江戸時代のような服装をしなさいと政府から命令されたら。たぶん、多くの庶民が反発するでしょうね。

 

しかし、暴力的衝撃は、そういうことをさらりとさせられることができる確率が高い。既存住民の文化をすばやく変えさせることができる。自分の推測ですが、明治維新というのは、教科書で教えられているよりもかなりの衝撃を武士や公家に与えられて行われていたように思えますね。

 

1970年代は、現代の先進国からラテンアメリカの改革モデルとなり、その後、ポーランド、ソ連崩壊後のロシア、南アフリカ、そしてイラク戦争というように復興・構造調整が行われ、2000年前後から津波、ハリケーン、地震などの自然災害による復興・構造調整が行われているように思える。

 

日本での昭和の敗戦後の復興の恩恵は、地元住民である日本人に分け与えられた。しかし、その後の各地の復興は、現状地元民に恩恵を与えられているでしょうか。自由という言葉は、非常に心地良い言葉ではありますが、だれにとって、だれが自由を獲得しているのでしょうか。世界の自由は、国際的企業、資本家にとって自由を与えているように思えるね。

 

彼らの自由を得るために、独裁的政権を認め、援助と債務免除によって暴力的に破壊された経済を立て直し、そして彼らに自由を与えるために市場開放と市場経済の導入を取り入れさせる。国内市場を開放させ、労働組合などの彼らの自由を阻害する組織を弾圧して、そのみかえりに安定した融資を国際金融機関や資本家は美名のもとで与える。

 

お尻に火をつけて人をある方向に向かわせる。

 

世界第一次、第二次戦争にしてもそのためにおこされたと自分は見ているね。各国のそれぞれの有力者の利害が一致した事件だったとね。

 

聖書によるとユダヤ人は、およそ2000年の間離散の憂き目にあいながらも文化的・宗教的・民族的なアイデンティティを維持してきながら、遂に1948年イスラエルを建国した。

 

オスマントルコ帝国の終焉により、英国バルフォア外相が、パレスチナにおけるユダヤの祖国建設支持を宣言したところから始まります。それが1917年。その後、英国統治領時代に入る。

 

新しく国を作る。それも2000年前に住んでいたとされる土地、周りは砂漠、資源といえば人材のみ。

 

1948年、英国委任統治が終了され、独立宣言。宣言翌日からアラブ五か国との戦争が始まる。第二次世界大戦の終了より欧州から多くのユダヤ人がイスラエルへと移住した。

しかし、何も糧もない土地への移住、さらにいえば国富などない。すべてがユダヤ人にとっては白紙の土地だった。国作りに必要なのは、なによりも国民を食べさせていくこと。その資金を得るためにユダヤ社会は、先進国へと移住するものもいた。

 

ロシアでは、スターリンによる圧政によりユダヤ人がイスラエルへと移民からはじまり、1989年旧ソ連からの大量移民が始まる。

 

 

1884年には、モーセ作戦によりエチオピアからユダヤ人がイスラエルへと移民。

 

そしてロシアエリツイン大統領時代に、大量のロシア系ユダヤ人をイスラエルへと移民させた。

 

1993年にオスロ合意が調印された。

 

この合意は、中心は国家間の和平を目指そうというのではなく、主に経済が中心だった。国家で大切なことは、国民を食べさせること。イスラエルは、当然産業に重視を置く。エリツイン大統領の時代以前は、イスラエルにとってもパレスチナ人の労働力はイスラエル経済にとって必要不可欠な存在だった。しかし、エリツイン大統領以後、ロシアからイスラエルに向かったユダヤ人は、経済難民であり、その移民の数は膨大になっていた。

イスラエルや東欧諸国はIT先進国! その理由や日本に与える影響は?

 

別にIT産業だけでなく、他の産業にも力をいれているが、顕著な例は、IT産業でしょうね。IT産業崩壊以後、この技術をさらに進化させ、セキュリティ産業を生み出し、監視システムを飛躍的に発展させた。エリツイン大統領以後の大量のロシアユダヤ人経済難民が、パレスチナ人との依存した社会に終止符を打ち、今日の対立へとつながっている。しかし、これは善悪ではないように思える。つまり自立心も関係する。

 

イスラエルは、常に自立を考えて行動していた。イスラエル国民が裕福になるように。しかし、パレスチナ人は、イスラエルに経済依存しすぎていた。この自立の精神の不足が国力や民族の力を弱くした。パレスチナ人もイスラエル人と同様、強い産業を持つべきだったように自分は感じるね。

 

前回のブログでラムズフェルド国務長官の政府中枢部にサービス経済を拡大させ、政府を空洞化による仕掛けを紹介しましたね。政府による空洞化というのは、全て政府は、税金をどうやって集めるかに向かい、そのお金の使い道をすべて民間に丸投げする。現在の米国が、その状態。トランプさんに変わってもその流れは止められないでしょうね。ただ大きな中抜きはなくなるかもしれないが。

 

お金には色がついていないといわれるが、紐はついている。その紐を切ることは国際社会ではできない。日本国内では、田中角栄元首相が、お金を配ったように、別に返さなくても裏切ったりしたりしてもよかった。たとえ皇室を利用した資金であったとしてもね。お金は国内で回るから、とがめたりしなかった。しかし、その分日本の政治家や官僚を含む役人が、甘やかされたような気がしますね。紐をきれないお金は、切ろうとするとどう対応するでしょうかね。その恐ろしさを知らなすぎたのが現在の政治家と官僚等のような気がするね。ただ、この現象は、現代の日本人では対応は難しいけどね。

 

自然現象などで暴力的に破壊された土地の住民は、居場所がなくなった。そして復興という名のもとに海外から援助や資本投資が進む。しかし、すでに支援してくれる国の公共の富は、産業界へと与える富に変わっている。復興は行われるが、そこで住んで被害にあった住民には、何も与えられない。労働はすべて産業界が他国から派遣された労働者たち。地元の労働者を使うと労働規制からして後々問題が生じやすいからね。日本株式会社も名義だけで実質は、すべて国際企業の運営となる可能性すらある。つまり、企業側が儲かってもその国民には恩恵がいかないような社会。自立の精神がなくなった国民は、それを受け入れざる負えない。

 

そしてそのような中、復興に成功した例もある。それが自立。自然災害にあった住民は、他へと移動しなかった。自分たちで復興作業にかかった。政府、組織に頼らず依存せず自分たち住民で復興をする。寄付してもらえるなら私たち住民の手に直接してくださいとお願いする。そして復興に向かい始めた住民のために多くの賛同者、技術者、資本家が協力した。近代の復興の成功例は、こういった市民による独立的自立精神が成功を及ぼしているようです。

 

厚生労働省などもまともな回答や解説は、官僚などもできなくなってきているでしょうね。その分、開示資料も黒塗りが多くなる。毎年自分は、治療のための診断書を書いてもらうために主治医の診察を受けるんですが、たまに診療以外の話題も出て雑談する。あまり診察以外の話はしないんですが、ほんのたまにね。その時話していたのが、直接国民に関わることはほとんどアウトソーシング化されていてらしい。米国でもアウトソーシング化され、そこへ米国の官僚も天下りという形で移動しているようです。この発案したのは、日本人かもしれないね。

 

この日本も政治活動も選挙運動も議員もエンタメ化しているようなので、自立というのは個人ではなく住民による自立を促すような運動、地産地消的運動が重要な気がするね。そういった人に選挙の一票をいれてもらいたいね。大きな組織に頼る生活、システムからの脱却かな。現代の政治家も思考は空洞化しているみたいですから、政治家は、官僚に頼り、官僚は民間大手企業に丸投げ、それが国際金融企業へと向かう流れになるかもしれないので、小政党乱立でもいいから意見ごちゃごちゃにするのもいいような気がするね。といって国際、いわゆるグローバル企業が悪いわけではない。いい方向に迎えばいいだけ。それが工作。

 

高麗は、当初は、元の軍人を高麗領土内から追い出した。元もそれを了解し、その代わりに貢物を受け取ることにした。しかし、高麗で内乱が起きた。三別抄の乱。その乱を抑えるために高麗の王族は、元の軍隊を受け入れた。内乱は内乱として高麗国内の問題にしておくべきだったかもしれないが、元の軍隊を国内にいれたことで高麗王族は守られたけれども、高麗領民はその分圧政に悩まされる。すでに高麗国としての自立精神をなくしていた。領民もね。

 

支配するということは、相手の自立精神をなくさせることでもあるのかもしれないね。つまり依存させる。このころから半島社会は、搾取社会へと性質が変わっていったのかもしれないね。王国の場合は、王族の性質の変化で領民の性質も変わる傾向があるかもしれない。

 

 

1281年(弘安4)クビライは、諸将を集め以下のように演説した。

WIKIより

「そもそもの始めは、彼の国(日本)の使者が来たことにより、こちらの朝廷からもまた使者を遣わし往かしたのだ。しかし、彼の方では我が使者を留めて還さなかった。ゆえに卿らをして、此のたびの遠征を行わせることとした。朕が漢人から言を聞いたところ『人の家国を取るのは、百姓と土地を得たいがためである』と。もし、日本の百姓を尽く殺せば、いたずらに土地を得ても、日本の土地は何に用い得ようか。また、もう一つ朕が実に憂えていることがある。それは、卿らが仲良く協力しないことのみを恐れているのだ。仮にもし彼の国人が卿らのもとに至って、卿らと協議することがあるならば、まさに心を合わせ考えをそろえて、回答が一つの口から出るように答えるようにせよ」

 

上記の演説により、元の言葉を信じれば、初めは日本側から使者を送っていたということになる。日本側から元に近づいた。当時日本は、武家政権時代。さらには、天皇率いる朝廷、そして公家は、衰退しつつあった。その代わりに光を浴びたのが鎌倉武士。高麗の王族同様、自分たちを守るため、若しくは権力を握るために外国勢力を利用することも考えるのが王族。朝廷の工作は、恫喝しかない。元を利用しようとしたか。日本に朝貢させようとしたのも女真人である趙氏。そして趙良弼は、みずから日本へ赴き一年近く滞在した。

 

たぶん女真族である趙良弼にしても日本の政況を理解していなかったのかもしれない。日本を支配していたのが、天皇率いる朝廷ではなかったということをね。日本の史料からは、日本から元に近づいたなんて史料は見当たらないね。

 

その時期に、いわゆる北条家内紛である二月騒動がおきる。これは以前記述済。

 

クビライの演説の最後に、クビライに仕えている多数の官僚の対立がある。どうしても多民族社会であるために各民族でかたまり、自分たちの意見を押し付けようとするし、競争意識も現れる。ある派閥が、白といえば、もう一方の派閥が理由がどうであれ黒というのと同じ。善悪など関係なしに反対を唱え、権力を手に入れようとする。クビライの元の時代も官僚内による派閥争いがたえなかったし、クビライ自身にもわかるくらい表面に現れていた。

 

武力による内紛はおさえることができるが、文官による内紛は陰湿さがましクビライもどうしていいか悩んでいたんでしょうね。妬み、嫉妬が渦巻くのが文官の世界。

 

クビライは、多様な意見に耳を向かせることが重要と考え、他国の官僚を迎い入れたが、常に対立するその後のことが気にかかっていたのかもしれないね。裸の王様であり、側近に依存しなければ判断できない状況。しかし、官僚というのは、ごまかすし嘘をつくのがうまい。口達者なだけあってもうまくまるめこまれてしまう。耳元でそっとささやくとかね。

 

クビライもそのような状況を理解していた。しかし、武で人を動かすことは長けても文で人を動かす術を身に着けるまでにはいかない。文で人を動かすにはどうするか。それが、諜報であり調略。元の時代と信長の出来事との共通点が次期現れるのでそこで紹介します。よって、元の時代の話は、まだまだ続きます。

 

よくよく考えてみると、高麗もすごい国です。金にしても西夏にしても宋にしても国は滅ぼされた、しかし、高麗は、生き残ったからね。その分、庶民は苦労したと思うね。

 

1281年、元・高麗軍を主力とし江南軍を混ぜた約15万人程の艦隊が日本へ向かう。現実は、もっといたかもしれないし、いなかったかもしれない。『元史』阿剌罕伝によると、モンゴル人を主力とした蒙古軍約400,000人が動員されたとしている。

数は不明ですが、大艦隊を引き入れて日本へ向かったことは確かでしょうね。

 

元・高麗水軍(東路軍)と江南軍は、壱岐島で合流し大宰府を攻める計画をしてたようです。

 

5月21日に蒙古・漢軍、高麗軍、以後これらを東路軍とします。東路軍は、対馬沖に到着。今度は、ユー、何しに来たのと言葉を交わさずに戦闘にはいったようです。かなり対馬側は抵抗したようですが、侵攻され、5月26日には、壱岐に襲来。この時に暴風雨に遭遇し少数の被害をだす。

長門にも襲来したとされるが、はっきりとは確認されていない。

 

ただ、江南軍と壱岐島で合流する予定であったが、江南軍は到着していない。駐留時期が長くなるほど兵糧などがなくなるし、その補給も難しくなる。江南軍をまたずに東路軍単独で大宰府を目指すことを考えたようです。

 

第一次元寇は、致し方ないような気がするんですが、第二次侵攻は、もっと違うやり方があるんじゃないかなと素人の自分でも考えるね。この地方は、全く知らない土地なので一概にいえないが、島自体砦にできるからね。素人の自分にしてもそれほどあせらなく大宰府に侵入しなくてもいいようなきがするが、何らかの事情に元側は、早く日本本土に入りたかったんでしょうかね。

 

すでに日本側は、元軍の進入路として博多湾に石築地(防塁)を築いており、博多湾からの上陸を断念。

史跡元寇防塁

 

 

博多湾沿岸からの上陸を断念した東路軍は、志賀島を占領し軍船の停泊地とした。そこへ日本軍は夜襲をかけ、夜が明けると同時にひきあげた。その二日後、日本軍は、志賀島にいる東路軍に総攻撃をかけた。

 

志賀島の戦いで日本軍は勝利し、東路軍は、やはり江南軍を待つこととして壱岐島へと後退した。

しかし、江南軍は、いつまでたっても来なかった。合流期限は、双方の話し合いで6月15日として決めていたはずであったが、その期日を過ぎても現れなかった。そこへ、東路軍内で疫病が蔓延し、多くの死者がでた。

江南軍は一向に到着しない、さらに疫病がひろまり死者をだし、その上兵糧が尽きだした。さらに船は所詮は木材でできている。手入れをしないと船に使用されている木材は腐る。その手入れをする人材も少ないし、多くの兵はそのようなことをするつもりもないし気もない。闘いにきて相手の者を奪うために来たのだからね。

 

補給として最初に用意したのが約三ヶ月分の兵糧。果たしてどんな兵糧を大陸国家は用意したんでしょうかね。湿気が高く、雨季でもあった日本。兵糧にかびがはえ、それを食し疫病が発生したのかもしれませんね。兵糧が尽きない中、撤退などクビライの怒りの怖さがあり、江南軍の到着をまずは待って反撃に出ようとする結論に達する。

 

ところが、江南軍は、東路軍が待つ壱岐島には向かわず、平戸島を目指していた。ここで何故か元朝内で遭難した日本の船の船頭が登場してくる。つまり倭寇。この船頭から平戸島が大宰府に近く周囲が海で囲まれ、軍船を停泊させるのに便利でかつ日本軍は防備を固めていないという情報を得たという。これまたあやしいね。

 

東路軍にしても捕えた対馬の島人から、日本軍の情報を得ていたが、それも失敗している。その情報が確かかどうか確かめる偵察船さえ用意していなかったのか。

 

当初、江南軍の総司令官は、阿剌罕(あらかん)が任命されていた。父親は、チンギス・カンの時代から仕えている一族出身。しかし、出発前になって何故か急病で倒れる亡くなる。急遽阿塔海(アタカイ)に交代する。そのために当初の出向時期より大幅に遅れることとなる。その上、阿塔海は、船には乗船した気配がない。もともと大陸国家育ちの一族のために、海洋を渡ること自体恐怖そのもの。江南軍の権力は、総司令官ではなくその丞相である范文虎(はんぶんこ)らが引き継ぐ。江南軍の出向時期は、阿剌罕(アラカン)がなくなったのが6月中旬とあり、期限である6月15日を過ぎていた可能性もある。江南軍は、二手に分かれて出航しており、済州島一旦たちより、そこから平戸に向かった艦船と范文虎(はんぶんこ)の艦船とに分かれて平戸にむかったようですが、范文虎の部隊の出向時期は不明。またもう一つの部隊がなぜ済州島に向かったのかも不明。一度安全な場所で休憩をとりたかったのか。済州島に向かった部隊の出校日は、6月18日とは史料にでているようです。それでも期限はすぎている。

 

6月下旬になり平戸島に江南軍は到着。

 

日本軍は、壱岐島の総攻撃をかけたのが6月29日。東路軍は、江南軍が平戸島に到着したという知らせを聞き、壱岐島を放棄して平戸島へと移動した。

 

漸く東路軍と江南軍が合流した。

 

 

 

 

 

7月30日夜半、台風が襲来し、元軍の軍船の多くが沈没、損傷し大損害を被る。このような結果をうけ、范文虎の主張を受け元軍は撤退する。不思議なことに丞相范文虎は、兵卒10万人を見捨てて逃亡。その時諸将とのやり取りでは、帰朝した場合、罪に問われたときは、范文虎があたる。他は諸将は、ともに罪にとわれることはあるまいと説明したようです。

 

中間管理職というか、いかに自分の責任を免れることしか何事も考えないということがよくわかる。范文虎は、兵卒を見捨てて敗戦により罰せられたが、死罪にいたらず、部下の将兵を見捨てなかった諸将は、罰せられることはなかった。

 

江南軍の侵攻には、宋王朝の皇室の子孫趙時妙も従軍しており、何故か趙時妙は東西不明となり船で彷徨っていたが、目前に青い鳥が現れ、前を導いたため、これについていくと、7日を経て東呉(江南地方)に至り帰還できたという、変な話がつたわっており、倭寇が助けたんでしょうね。

 

日本軍は、この御厨海上合戦で元軍の軍船を伊万里湾からほぼ一掃した。

 

元史によると、捕虜にしたモンゴル人、高麗人、漢人の捕虜は殺害、旧南宋人捕虜の命は助け奴隷にしたという。高麗史には、命を助けられた捕虜は、工匠および農事に知識のある者となっている。

 

芸は身を助けるていうことか。

 

ここまでで

 

元寇の詳細は、WIKIなどで調べてください。いちようザクっと流しました。江南軍の動きはおかしく感じるね。ただし、クビライに言い訳はできる。前回は、日本側は火攻めでおこないましたが、今回は、九州内地に上陸させませんでしたね。当時は、倭寇といえどもそう簡単に火薬を手に入れることはできなく、総力戦には使えなかった。しかし、海を利用して勝つことを武士は知った。夜戦によって相手を疲れさせ、臆病にさせ、日本的風土を利用して勝利に導いたということでしょうか。当時の倭寇は、たぶんインドあたりまでは、商圏にはいっていて、オセアニアや北、南アメリカ大陸の沿岸なども商圏にはいるほどの活動をしていたのかもしれません。海は、ひとつの世界を持ち、その領域があることを当時の武士は知っていた。その点、秀吉は、山の民に近く、海の世界というか縄張りがあることは知っていたように見えますが、つながりがない。しかし、信長と光秀は違います。

信長は、東海の主要な港をまずおさえてますからね。当初は津島からですし。倭寇とも縁がある。光秀は、このブログで光秀の素性を記しましたが、先祖は、三河大草の出身であり、足利将軍家の料理番の家系。足利将軍家として京に居住したとともに京に近い福井の港を拠点とした。料理には海魚は必要ですからね。よって海賊禁止令も千利休こと光秀の工作。

 

信長の時代は、海の世界も日本の山の世界も変わり始めた時代。よって、信長は、ポルトガルやスペインの動きは、すでに知っていたとみた方がいいでしょう。地球儀は見たこともなかったかもしれませんが、世界の動きは、倭寇から知らされていた。特に中南米と東南アジアの動きはね。信長としては、倭寇の変化を予期していたために瀬戸内海の覇権は、必要だったし、能登も覇権も必要だった。その変化を知っていたのが、光秀であり、家康だった。それが山の民と平野の民の融合、平野の民と海の民の融合。各々が変化を知り、そして自立していくためにお互いが自立していくために協力し、江戸幕府を築いた。家康が江戸の地を開拓したのもそのため。開拓する土地が必要だった。山の民と海の民が住める場所が必要だったからです。

 

明治維新の時、勝海舟は、日本に住む人間の多さにびっくりしたそうです。戸籍なんてものは特定の住民しかなかったからね。満蒙開拓は、日本列島の人口が増加しつつあることから考えた政策の一つの原因だった。つまり世界の人口増加、日本の少子化、人口減は、人口増加の国からしたら恰好な餌食。それにのるのがひもの付いた利権をつかまされた者達。

 

世界の秘密警察、諜報機関といえば、ロシアのKGB、米国のCIAなどは有名ですね。日本に主でだって組織されたのが桓武天皇末期。それまでには、あるにはあったようですが、規模が小さい。その制度が確立したのが、平城天皇による観察使制度の設立。この設立により日本の主要各土地に諜報網が作られた。その諜報網の目的は、反体制派を処分すること。その諜報にあらゆる職種も参加させる。そのみかえりに利権を与える。

 

ロシアでは、ウラジミール・レーニンによりチェーカという反革命運動・怠業および投機取締非常常任委員会という名で組織された。その役目は、既得権益集団を守る事。ロシアでは、皇帝からの権力を奪い、レーニン後からの権力を維持する集団の利益、権益を守る事。黒から白に色が変わる事と変わらない。そしてチェーカーが、社会主義体制の主柱となる。この組織は、超法規存在となり、エリート・官僚という階級の利益を守るために国民を服従させる機関へと変貌する。その業務の中には、移民を送り込んだり、革命を他国でおこさせたりもする国際的事件も携わるようになった。

 

しかし、少々やりすぎたのかスターリンは、諜報将校を粛清した。そして新たに再編成され現代のKGBと改称された。日本にも公安という部隊がある。内藤晴輔さんによると表の公安、裏の公安とがあり、裏の公安が、任侠団体だそうです。よくわかりませんが。イスラエルが。情報・監視産業で経済成長したのも、ロシア系ユダヤ人の移民の影響が大きい。よって、それほど大きな経済力を持たなくても情報・高度技術なるものは、手に入れる工作能力を持っている。技術開発、そして人材能力向上というのは、安全保障の範囲でもある。それをないがしろにすること自体、国という概念を持ち合わせていない。日本は、その概念をもちあわせているでしょうかね。

当初は、こういった秘密警察や諜報というのは、インテリなどの優秀な人材を粛清したことから始まる。それによっておきたのが、一部の権力者、指導者に選ばれた、或いは任命されたものを特権階級とし、それに属していないものを二流として、エリートとして認めた人間の命令に疑問をもたず唯唯諾諾として従うべきだとした。少数の指導者の決定に従えと言うこと。

そのためには、人間の憎しみ・不信感を利用する。そして庶民とは別の民族に監視させる。そうすれば平然と命令に従うことができるから。日本でいえば、会社の命令ならば多少のことは目をつぶってしまうとかね。自由と文化的独自性や良心さえなくすのが組織社会。自由といえるのは、権力者のみ。

 

数々の試練を国に与えられ、鍛えられ、その中から人材というものの重要性を学んだのが、現在のプーチン率いるロシア。中国の首脳も初めは日本から学んだ。しかし、気づいた。他のBRICS諸国も気づき始めた。それが何か。ヒントは信長だと思うね。

 

次回は第三次元寇侵攻に向かいますが、さらっと行きますね。

 

ちなみに下記動画も工作のような気がするね。このような状況になることは初めから日本の厚生労働省以外は、知っていた。だから議長国を日本の厚生労働省の官僚にやらせた。また、この撮影にしても両陣営了解のもとでしていると思うね。

世界にこの日本を見させていく流れ。それが今後やってくる日本の危機。

 

 

ではごきげんさんで。