こんにちは、元気ですか(・・?

 

「国は、民にとって根を張る大地のようなものだ。その国が失われれば、人は必ず心身ともに朽ち果てる。人間すべてが朽ち果てる。拒むものは力で従わせることができるが、国々を叩き潰すその武の力でそれらを全中華で行えば、それはもうこの500年の騒乱以上の汚濁。征服後の亡国の民をどう救済するつもりだ。」

 

漫画キングダム斎王が、始皇帝こと嬴につげた。

嬴は答えた。

「支配なくしてこの中華を一国になどできるわけがない。雑種多様な文化・風習・侵攻、これらの複雑に別れる中華の全民を同じ方向にむかわせるなど逆にこれまでにない強烈な支配力を持つ者たちが上に立たなければ実現不可能だ。」

 

そしてここで法による統治を斎王に説明する。

 

「法律に最大限の力を持たせ、法に民をおさめさせる法のもとには元生の民、真の民も関係ない。貴族も農民も関係なく、皆均しく平等とする。法治国家を提言した。」

 

世界の工場、巨大市場として経済に大きな存在感を占めるこの大国を統治しているのが、習近平国家主席。習近平新時代の中国の社会主義思想、彼は、この思想を主張する演説で、アヘン戦争以来と演説を始めた。いかに中国主導部が、このアヘン戦争を忘れていないか。

中国はそれ以来、腐敗と虚偽にみちた世界・政治であった。

 

 

世界にいる華人華僑は、6000万人以上いるという。この華人華僑をまとめるために南京事件、慰安婦問題に関する抗議活動、さらには欲の奴隷となる政治家や企業経営者・幹部等を工作する。一帯一路構想にしても相手国のあせりを利用させるようにしくむ。碁盤の色が次第に黒に染まる。

 

刃に血塗らずして勝つ(兵不血刃)

荀子は、農業こそ国家の富の生産の最も重要なもので、人々がただ学者のように思想・哲学のみを語り、商業・産業に力をそそがないと国家は貧しくなると断言している。食糧を封鎖して一般庶民を餓死さあせ、敵国の一部を寝返りさせ相手国を滅ぼす。犠牲となるのは、一般庶民。数十万人、数百万人、数千万人以上の一般庶民が餓死しても、軍同士は戦火を交えず一瞬に勝利する。
 
人間は、自分から奪う者たちに激しい怨念をいだき、決して許すことがないというのが現実。
 
現代の中国を見てみるがいい。

 

 

中国の治安は、かなり改善されたらしく、といっても庶民に対しての監視が強いこともあるでしょうが、2000年代以前の中国とかなり変わってきている。以前無法地帯にもみえた都市や街が、今では打って変わって治安がいいようです。その分、そういったことで稼いでいた者たちは、次の稼ぎ場所を目当てに移動します。当然、日本にも来ているでしょうね。

 

猫組長の動画もここ最近みていますが、この人は元ヤクザで大きな組織ではないが、組長をしていたそうです。日本では、組織をぬけだすこともでき、我々一般の庶民と同じように生きていられる。しかし、このようなケースは、日本だけかなと思うこともある。大陸の国では、まず考えられない。というか、自分の知る範囲ですがね。それぞれの国にそういった裏社会なるものはあるが、抜けたらまず○○だね。国の機関であろうとも地元の機関であろうともね。ある外国の機関により利得権益を求めた外国人商人は、権益を続行するのに邪魔な商人の家族を○○した。商人は、その機関の命令に背くことができない。また、逃げることさえできない。一度誓を宣誓して儀式を終えた者は、裏切りや組織を抜けることはできない。

 

習近平国家主席が、中国を語るのにアヘン戦争から述べるのと同様、日本の識者は、明治維新から述べようとする識者がいる。しかし、外国の識者から日本の近代史を述べる人の中には、徳川家斉の時代から説明する人もいる。最低でもそこらの時代からの背景を詳しく調べることが必要なのかもしれないね。

 

米国に亡命したあるロシアスパイの本を読んだんですが、日本は、総理大臣が極秘扱いであっても目を通した文書は、その翌日には、外国のスパイ機関に流れているという。外国人が日本に入って来たのが、江戸末期。すでに数万人が江戸末期に日本に滞在してきた。当然、その末裔もかなりいるでしょう。背乗り、養子になった人もいたでしょうね。

 

なんとなくこの日本がスパイ天国といわれる理由もわかるような気がするね。

 

ここでちと気色の違う話をしてみますか。

 

このブログでは、hobby lifeとして動画も紹介しています。紹介していた動画は、ほとんど自分が手の怪我をする前に経験していた趣味生活。ソロキャンプも犬を連れていきながらよくしていた。ほとんどソロキャンプなど深い山奥でほとんど誰も来ない所でするので、犬を連れていかないと危ない。猿も熊も猪もいるからね。蝮もいる。主に帰り道に困る場合があるので、渓流を辿りながら奥深く登っていくスタイル。フライフィッシングのような釣りもしたかったんですが、釣り場に人が多いのと、渓流は結構狭いのでおもにテンカラ。

 

 

ヘンリー・デイビッド・ソローいわく、「多くの人が、自分を追い求めるものが魚でないことを知らずに生涯釣りに行く」

 

もともと魚を釣ると行為は、食糧とするため。食糧とするために釣りをするには、通常は、網や生き餌を使い、容易に釣りやすくする。しかし、フライフィッシングのような毛鉤で釣るのは難しい。古代人は、釣りの目的は、食糧として魚をとらえること。魚は、神々からの賜りものであり、娯楽のために魚で遊ぶのは不敬であるといわれていた。

 

しかし、貴族、王族などの階級社会となると釣りも様変わりする。フランス人は、リラックスするために釣りをし、アメリカ人は、釣りを人間と自然との闘いとして見る。英国人は、フライフィッシングを英国式私有財産への情熱を示すためにするようになる。

 

フライフィッシングとは、王侯貴族に属する釣りの技法であった。その釣り方は難しく、優雅であり困難であり、胸躍るほど楽しい釣り方であった。魚に挑戦する釣り。原野に美を求める一方、慈悲をもとめることはない。

 

すでに毛鉤の釣り方は、中国大陸の商王の時代に文書で書かれている。糸は、絹糸。

フライフィッシングは、主にマス釣り。マスは、視力がいい、警戒心が強い、音にも敏感。特に最近は、釣りをする人が多いせいか、鱒(やまめ、イワナ)も警戒心が強い。一度谷に入れば、その釣り場は、すでに人が入ったということで、後から釣りにむかっても警戒心が強く釣れることが少ない。

 

経験は、魚さえ用心深くする。釣り人にとって、それまであまり入ってこなかった川は、有利です。その川に巣くう魚は、大型であっても警戒心がないため偽餌にすぐに食いつく。インチキ商品を売りつけてくる商人にとっては、恰好の餌食。

 

日本は、江戸時代という外部からの侵入を受け付けない世界が長く続いた。ほとんどの庶民は、用心深さをなくしていた。毛鉤などの偽餌を使い、獲物をしとめようとするのは、一種のゲーム。このゲームの最終的終末点が、下記の動画の世界。

 

日本でこのような世界を知った、或いは経験した経営者で、自分なりに聞いているのは、ダイエーの中内会長。側近からたぶん経験しているくらいすごい人だったと聞いていた。もう一人は、豊田自動車元会長奥田碩。この人は、わからないが、出版されている本から想像すると経験したか、外で見ていた可能性がある。現代はそのような経験してきた経営者はもういないでしょうね。しかし、世界は、現代でもこのような野獣の世界の人物ばかり。

 

パンデミック条約反対でも、盛り上がりましたね。しかし、この運動が、単なるあく抜けであってはならないでしょうね。これまでの一連の動きは、レーガンの時代から始まる。もっと詳しく調べると第二次世界大戦後のある会議、確かこのブログで紹介したはずだけどね。そして本格的動きが現れたのが、ラムズフェルド国務長官が、ペンタゴンの官僚に対しての挑戦した言葉から始まります。

 

アメリカ合衆国にとって安全保障の深刻な脅威、それが国防総省の官僚主義だと説明した。官僚等の前でです。ラムズフェルドは、自分が勤める組織に対して闘いを宣言した。すごいね。日本の民主党とはえらい違いですね。

 

政府中枢部にサービス経済を拡大させる。いわゆるアウトソーシング化。政府の空洞化を仕掛け始めた。

 

日本では、たぶん中曽根元総理、レーガン大統領の時期から官僚内でその仕組みを伝えられていたでしょうね。伝染病のような特許ビジネスについてもね。

 

目当ては、税金。税金でインフラやシステムの開発資金を得て、それを民間に売却して産業界に分け与える。明治の頃からしているね。支払い元は、税金。税金であれば、いわゆる東電などの電力業界がしてきた原価加算方式。大企業は、税金で研究費を補助され、政府の業務をできるだけアウトソーシングすることによって削減、若しくはその資金をくわえた膨大な資金を民間企業に直接送り込むことができる。

そしてその延長としての工作が、上記の挑戦であり、戦い。そしてその工作に上級官僚が加わる。弱い国ほど将来的に今の地位が脅かされることを知らずに。

 

歴史をみるにしてもある程度どの時代も形は変えてるかもしれないが、動きは同じ。こういった面で信長の歴史を考察してみるのもね。

 

前回の続きに行きますか。

第一次元寇を追い払ったのが、倭寇こと八幡の民である海人族だった。

 

 

 

詳細は、上記wikiに譲るとして、室町時代から江戸時代にかけて日本では、海賊船を通称して八幡船とよばれていたようです。

八幡という町名は、全国いたるところにあり、自分が思うには、主に山の民と海の民の両方の民を通称として用いていたように見えます。よってそれらの民が平地にすむことにより、そこを八幡町とか八幡市とかになったような気がするね。

 

主に山の民は、藤原不比等の時代から桓武天皇の時代。このころから森林伐採が激しくなったようです。近畿地方にしてもある土木工学学者が話していましたが、桓武天皇の時代にごっそりと森林が亡くなっていると説明していた。

 

森林が伐採されることによって、山の民の住処がなくなりだした。そしてその民が平野へとむらがり治安が悪くなり、さらにその中からのし上がったものが武士となり武力で統治しようとする下克上のような時代へと日本列島は入っていった。そういった山の民の生活を考えたのが、一部の大名であり、その延長が楽座楽座とか市座の政策だった。山の民に職をもたせようとした。それも国内商売で。

 

以前、平安時代の庶民の生活の説明をしましたが、現実は、多くの庶民は、穴倉で寝食きしていた庶民が多く、木造の家といえば貴族や一部の武士、そして荘園などで守られていた百姓等。ほとんどが寝るとこさえきまらない生活だったような気がします。それを変えたのが信長。信長は、山の民の生活を平地で形成しようとした。当然、山の民は、信長に協力します。信長が、戦として戦頭にたてば、そのあと山の民はその知らせを聞きつけ信長の後を追う。戦陣についたころには、多くの山の民が集まった。そして腹いっぱいの飯をくわす。一食一飯の恩義ということで、山の民は、信長につくす。3日目、もしくは4日目からお手当がでる。軍功をあげたものには、莫大な報酬を与えられ、信長軍団に今後も仲間入りするか、それともその資金で商売を始めるかは自由。

 

たぶん桓武天皇の時代までは、兵隊は、荘園の百姓を中心として村から何人兵隊として差し出せとかの命令で兵隊を募集していたようにみえる。しかし、桓武天皇の末期、藤原緒嗣(おつぐ)による武士の子が兵となり百姓から兵士の任務を解き放させた。このブログでは、藤原緒嗣は、出雲系の人という見解です。過去のブログを見てくださいね。

 

九州は別として本州では、鉱山開発というのはそれほど活発でなかったような気がしますね。天武以前はね。特に京都から東についてはね。

 

当時のエネルギーの材料は、木材。鉄製品を作るにも多くの木材が必要。人間の生活にも必要ですしね。よって、戦国時代の寒波到来時期に淀川に死骸でせき止められるくらいの死者がでたのも、人間生活に必要な薪さえも手に入らなかった時代だったかもしれませんね。

 

信長によって山の民の生活が平地へと開放され、そしてもう一つの海の民の開放が、秀吉の海賊禁止令。山の民による平地への開放が、鉄生産による資源争奪へと変わったように、海上の生活も変わりだした。それが西洋の諸国の進出。国家を基盤とした商船に海賊とて立ち向かうことができなかった。そこで海賊も日本の平地へと住処を変え、権力者とともに海上に進出しようとした。強い者に巻かれよかな。

 

そして平地に与えられた土地名が八幡。山の民が開拓した土地が、美濃や尾張、そして江戸。琵琶湖まわりも古代は、彼らの住処だったかもしれませんが。信長、秀吉、家康が形成した時代が、八幡の民が平地へと住処を変えつつあった時代。海の民と山の民と平地の民の融合の時代。明治から大正、昭和の時代は、貴族なる公家と平民との融合の時代。そして令和以後は、ひょっとして皇室と平民との融合の時代へと向かっているのかもしれませんね。まだまだ公家は、権益を維持しているようですから市民融合となるのは時間がかかるかもしれませんがね。

 

ちなみに、天武天皇の天武という名は、唐、武唐の時代に天武といわれた大陸の王族がいたし、文武天皇の文武にしても加治兄が動画に説明しているように、同名を使っていた王族が唐にいました。その説明をここですると長くなるので次回機会あるときに紹介しますね。

 

元・高麗による第一次日本侵攻で高麗は、国力を極度に悪化させた。食糧となる耕作するものすら子供・女性・老人ばかりとなり、さらに日照りと長雨がつづき稲は実らず木の実や草葉をとって飢えをしのぐもの多数とあり、クビライに苦情を申し立てた。

 

海の戦い方の経験を知らないクビライに対して、台風などの自然現象によって敗れたと報告したんでしょうね。火攻めでやられたことは、クビライや元の官僚には、黙っていた。

クビライは、南宋を攻略後、親元についた南宋の官僚等に対して日本侵攻の是非を尋ねた。南宋の旧臣は、みな「伐つべし」と答えたという。この一人に范 文虎(はんぶんこ)がいる。

 

宋と金とも日本とは古代から深い関係があった国。これも説明すると長くなる。次回機会があるときに。

南宋にしても日本のことはよく知っているはず。古代から日本ー百済ー梁といい、南中華とはつながりが深い。元のクビライの日本使節の当初の目的は、南宋攻略への足掛かりにすることでもあったと推測もされており、南宋と日本とのつながりは、民間を通して深かった。いわゆる、武士政権は、自ら交易を乗り出すことはしなく、不干渉という形で民間による交易は認めていた。倭寇の存在を認めていた。当時でも中国大陸へ向かう大型船は、唐船と呼ばれており、国が宋に変わろうとも元にかわろうとも唐船とよばれ、南宋が元に滅ぼされたとしても、民間交易は、盛んに行われていた。元寇の侵入にあおうとも日宋貿易が日元貿易に変わっただけで、交易は民間で盛んに行われていた。日本と大陸との交易は、国が入るべからず民間というか倭寇に任せろと言う姿勢だったんでしょうね。

 

また、北条幕府は、宋の僧呂を優遇し、招聘していた。現代でも残る多くの寺の修復は、こういった宋の僧呂等が連れてきた職人とともに修繕、築造されている。特に范 文虎(はんぶんこ)は、南宋の宰相の賈 似道(か じどう)の娘婿であり、彼は骨董の収集家としてもしられており、倭寇系列の商人ともつながりがあるはず。特に日本からもたらされたものは、金・銀・真珠やその工芸品。なんらかの意図があってクビライの日本侵攻に同意したのかもしれませんね。

 

南宋の旧臣が同意する中、クビライの重臣、耶律 希亮(やりつ きりょう)は、反対した。

 

 

モンゴル帝国の官僚として著名な耶律楚材の孫。

「宋朝と遼・金の300年にわたる戦争が終結したばかりであることから、数年を待ってから軍を興しても遅くはないと進言した」

クビライは南宋の旧臣らの進言を退けて、耶律希亮の意見を採用した。こうして、日本侵攻計画は当分の間、延期された。

 

日本侵攻が延期されてから3年が経過した1279年、ふたたびクビライは日本侵攻の計画を立てる。

 

クビライにとっては、第一次日本進出の失敗が、台風などの自然災害と知らされているから、日本に負けたとは思っていない。そのため、もう一度考え直せと言う意味で日本再侵攻の準備を進めているぞという姿勢と恫喝の意味をこめる意味のもとで日本を服属させるためにモンゴル人使節を派遣した。

元使構成員

  • 正使:杜世忠(34歳・蒙古人)
  • 副使:何文著(38歳・唐人、兵部郎中)
    辞世の詩「四大原無主 五蘊悉皆空 兩國生靈苦 今日斬秋風」
  • 計議官:撒都魯丁(32歳・ウイグル人)
  • 書状官:果(32歳・ウイグル人)
  • 通訳:徐賛(32歳・高麗国人)
    辞世の詩「朝廷宰相五更寒 寒甲将軍夜過関 十六高僧申未起,算来名利不如閑」

 

 

北条幕府というのは、合議制の社会。いわゆる農民共同体社会。そのために一人でも反対すればなかなか前に進めない社会。よってその動きが、第一次元寇にも表れている。また、北条幕府は戦に勝ったと思っている。たとえ倭寇こと八幡の民が協力してくれたとしても。その認識の違いが、両者にあり、元の使者は、執権北条時宗によって斬首された。これが七回目の元の使節団。

 

三年という期間、これも倭寇から元の日本侵入の延期の情報がすばやく北条幕府にはいったのか、それとも高麗の疲弊状況の情報がもたらされたのかわかりませんが、何らかの情報を得ていたのでしょう。その間に石筑地の築造にあてられる時間と費用、人員を得られた。北条幕府は、三ヶ月ごとに交替となる異国警固番役を九州沿岸にあたらせた。

 

第7回目の使節派遣の日本側の態度により、日本討伐を決意していたであろうクビライは、三年後の1279年、南宋の旧臣范 文虎(はんぶんこ)に相談する。どこの王族でも地位という権威を与えられ、儀式というものを重視する生活になると制限がかかる。むやみやたらと戦などできなくなる。好き嫌いではなく、大義名分がないと戦など仕掛けられなくなる。さらに海戦についての知識もない。相談できるのは、南宋の旧臣くらいしかいなかったのかもしれない。元に出入りしている商人にしても大陸横断商人等のために海戦について知る者もほとんどいない。

前回の使者が、斬首にあっているにもかかわらず再度使者を出そうとする意見にクビライは同意する。クビライは宗主国という地位におかされていた。さらには、すでに元は、官僚主導の文官政治に変わっていったのかもしれませんね。

 

第8回目の使節団は南宋の旧臣という范文虎の立場を利用して、日本と友好関係にあった南宋の旧臣から日本に元への服属を勧めるという形をとった。当然北条幕府は、服属への要求であることがわかると、その使節団を斬首にした。

 

これが家康の時代までの日本の武士です。

 

第7回目の使者は、1275年4月に送られており、その年の9月には斬首されている。その知らせがいつクビライに届いたんでしょうかね。斬首されていなく、日本側に寝返ったかのような説明をしたのかもしれませんね。すでに裸の王様の状態。官僚というか公家も同様ですけど、官僚主導の政治というのは、怖いところもあるね。王を腑抜け状態にしてしまうところがある。

 

使節が斬首されているのをしらないまま、1279年2月に出兵準備を開始する。同年2月、日本侵攻用の戦艦600艘のうちの200艘の造船をアラブ系イスラム教徒である蒲 寿庚(ほじゅんこう)に命じる。アラビア人ともペルシャ人ともいわれる。南宋の泉州の貿易商人であり、福建水軍の司令官であった。当然倭寇ともつながりがあります。高麗本土には、船建造に使う木材乏しく、済州島から軍船建造木材3000隻分を供出させ、高麗に900艘の造船を命じる。

 

しかし疲弊している高麗の民にそのような命令をしても思うようにはいかない。江南の民も高麗の民も疲弊し、クビライはとうとう蒲寿庚に命じた200艘の建造を中止させた。南宋の元宰相賈居貞、徐世隆等がクビライに対して日本侵攻を諫めたがききいれられなかった。

 

南宋にしても元による侵入で耕作放棄地のような土地が多くなり、屯田などを行うような人材も不足となりそのような情勢の中で造船に人を取られること自体、民の疲弊がますます大きくなる気配の状況だった。日本遠征のために民を徴収するようなことがあったならば、民に動揺がはしり民衆による動乱が始まるかもしれない恐れもでてきており、多くの者がクビライの日本進出に反対した。

 

1279年8月になり高麗から杜世忠らの処刑が報じられクビライに伝えられたが、下手に動かずに様子見することにしたようです。

江南の民のしわよせがすべて疲弊している高麗の民にかかっており、この時代の高麗の民の苦しみは生涯忘れられることがない記憶に閉じ込められたのかもしれませんね。高麗から李氏朝鮮に変わっても、日本の半島進出は、どうしても過去の恨みをおもいださせたのかもしれませんね。

 

1281年、クビライは、首都・大都(北京)で以下のように演説した

ウィキより

「そもそもの始めは、彼の国(日本)の使者が来たことにより、こちらの朝廷からもまた使者を遣わし往かしたのだ。しかし、彼の方では我が使者を留めて還さなかった。ゆえに卿らをして、此のたびの遠征を行わせることとした。朕が漢人から言を聞いたところ『人の家国を取るのは、百姓と土地を得たいがためである』と。もし、日本の百姓を尽く殺せば、いたずらに土地を得ても、日本の土地は何に用い得ようか。また、もう一つ朕が実に憂えていることがある。それは、卿らが仲良く協力しないことのみを恐れているのだ。仮にもし彼の国人が卿らのもとに至って、卿らと協議することがあるならば、まさに心を合わせ考えをそろえて、回答が一つの口から出るように答えるようにせよ」

 

 

元軍の再来を予知したといわれる南宋からの渡来増・無学祖元は、北条時宗に「驀直前進」を唱えた。これは予知したというよりもある程度南宋の僧呂等と倭寇と南宋の商人等によって対元による工作をおこなっているようにみえるね。華僑によって北条幕府は利用された。さらにいえば、華僑の工作によって元の日本侵入を止めさせ、元の統治精神を変えさせた。クビライ死す以後、元の性質はおそらく大きく変わります。

 

次回は第二次日本振興計画へと向かいます。

 

信長によって日本は、平地の民と山の民が融合され、秀吉というか千利休こと明智光秀によって平地の民、山の民と海の民が融合するようになった。そして家康以後、平地の民、山の民、海の民が融合して江戸幕府を築いてきた。道中旅しても危険がない社会へとかわっていった。その上だれもがたとえ掘っ立て小屋であったとしても木造の家にどの庶民も住めるようになったのが江戸時代。

 

ここまでで。

 

少し近代史の話題でもしますか。昭和の敗戦は、庶民にとっては多くの被害を被った。150万人の戦死者、800万人の民間人死傷者、250万の家屋破壊など、およその数ですが被害を被った。終戦後は、一千万人の餓死者が推定され、東京の人口も675万人いた人口が半減した。

日本にとっては、大きなショックがおきた。日米戦争前に、多くの外国資金が日本に投資されていたし、日本からも外国に投資していた。それが戦争により一気に止った。日本からの投資資金は、無くなったかもしれないが、外国の企業家等の投資資金は、戦後もそのまま維持された。そしてその資金を日本は、利息をつけて返した。全ての外国の資本家に。

 

戦後、連合国軍占領と戦後改革で内務省の廃止、財閥解体、農地改革などの政策を実施したが、基本的には、現在もその流れが残っている以上、明治からの既得権益は温存された。また温存しないとそれまでに日本に投資してきた外国の資本家は困る。下手に革命などおこされると、利権構造が壊される。ドイツは、何故か重い補償・賠償金を支払わさせられたが、日本は、国家破産を逃せるために賠償金などは表向きは免除となった。

 

アジア社会では、物事がみかけどおりであることはまずないといわれる。よって、現代日本で多くの識者が中国や他のアジアの国の情勢を述べているが、表向き日本の庶民は、権威を重視して権威を盾にした見方で物事をみようとする。しかし、現実は権威など何も持ち合わせていない人たちがアジアを動かしている。つまり、権威というのは、ごまかし、不正行為、○○を隠匿するための材料でもあり装置。権威あるものは、現代の政治家同様、いつ何時権威に挑戦されたり、転覆を計画されたりするような不安を除こうとする。

 

クビライも同様。常に助言者を頼るようになった。そうすることにより意思決定のプロセスが複雑となる。クビライなどの元の国王は、その後たえず助言者に頼る人間となった。儲けを最優先させる資本家にとって、もっとも安心して搾取できるのが税金。搾取するために何が必要か、それを企ててくれる者を優遇すること。大きなお金をどの時代も同じ入れ物に入れてくれる者を優遇すること。バブル崩壊時に財界エリートの組織や官僚の責任を守ろうとするのは、金の壷に絶えず入れてくる役目があるから。

 

近現代の歴史は、少なくとも徳川家斉の時代から辿るものというのが自分の歴史観です。そして一つの見方の変わり目といっていいのが、明治維新の三傑。

 

木戸孝允→筆の人といわれている。

西郷隆盛→剣の人といわれている。

大久保忠通→圧制者といわれている。

 

女神ともいわれ、魔女ともいわれ、キリストのマリアともいわれる女王の世界。女王の一面に現れているのが近現代史。あまり詳しくいうことができない。

 

この三傑は、日本はエリートによって独占的に運営されなければならないという同じ考えを持っていた。西郷は、王というのは、強力な武人、古代神武天皇のような強力な指導者である王の生まれ変わりとなるように天皇というのを神格化させた。神格化された王は、兵、或いは民衆、または、草となって外国領土の征服によって国に富と繁栄をもたらすという思想があった。それが征韓論でもあり、満州、中国進出。すでにそういう考えが、第二次世界大戦まであったとみている。

 

大久保は、西洋の君主の姿をみていた。物事の中心が、金、マネーの世界だった。行政上は、実務者に任せ、君主の周りにいる貴族、資本家のために働く有能な能史に任せて国を治める。つまり庶民は、貧しいままでいいという考えを持っていたと推測されている。

木戸は、この二人と違いどのような考えをもっていたんでしょうかね。

 

そして皇族は、どういう考えをしていたか。それぞれ考えが違う。

 

明治の三傑がどういう形であれ終わりをつげ、新しい人材が輩出する。それぞれが三傑の意志を受け継ぐ。受け継いだ者等は、用心深くなる。用心深くなるとその防波堤を築く。それが元老制度。

 

元老制度から生まれたのが派閥政治。権力強化が第一になるために政府は二の次。支配は、派閥から派閥へと転転とかわるようになる。権力強化にもちいられるのが、役職の分配とそれに伴う利権。そのために忠実な仲間のネットワークをつくり敵対勢力を倒すことに力を注ぐこととなる。政治などは単なるその争い事を隠すための飾り。

 

元老院の力が強くなると、その支配を弱めようとする勢力も当然現れる。その登場が、新しい形であらわれる政治家。しかし、金の壷にいれてくる富の人材を変えただけ。富の入れ物を変えるには、社会革命しかない。しかし、日本人には、社会革命の経験がない。

 

現代の国会をみてみるとよくわかる。岸田総理の支持率が10%台でも、また米国人に歓迎され、日本の国会でこれほど拍手をうけたことはないというほど不人気な総理でも、だれもやめさせることはできない。また支持率が低い政府、総理に挑戦するものもいないし、その手段が乏しいのが現実。国民に力を与えていないのが現実。民主主義と語りながら、それはお飾りになっている。

 

権力者は、人事権を以前はなかったが、内閣人事制度の改革により人事権を手に入れることができた。それまでは報酬を間接的にあたえることによって官僚や役人に対して動かせることができた。またそれらの輩は、国民にとってよいことであったとしても、権力者の利益にならないことは妨害した。その妨害する方法は、一重にいかなる権力も行使していないようにみせること。

 

金の壷は、敗戦前までは、天皇の壷だったかもしれない。それが現代は、天皇から別の国の人に変わったのかもしれないね。戦に敗けるということはこういうことかもしれない。

 

何故天皇率いる朝廷政治から武家政治に変わっても天皇と朝廷は生き残ったのか。おそらく武を捨てたからでしょうね。武をすてて工作が残った。

 

伊藤博文翁は、ドイツの宰相ビスマルクの意見を参考にしていたという。文明国になるにはどうすればいいか。

また、文明国というのは、欧米国のような国になることなんでしょうかね。信長の歴史考察を進めながら、考えてみましょうかね。

 

ではごきげんさんで・