こんにちは、元気ですか(・・?

 

大化の改新の頃から、日本列島は、くだらもん、からもん、こうらいもん、しらぎもんといわれていた派閥があったように、現在の日本政府の政治家同様、大陸勢力の一部として活動していたみたいですね。よって、現代の政治の動きもそれほど驚くことでもない。

 

自分の兄弟は、男ばかりの三人兄弟。そして自分の周りの友人や知人にしても一人、二人、多くて三人兄弟姉妹。両親は、母、父とも7人兄弟、祖父、祖祖父に関しては、わかりません。末っ子だったために、あまり親戚付き合いというのは、長男にまかせているし、ほとんど年齢が違う人が多いからね。従弟といっても、従弟の子供と自分が同じ世代というのが多いからね。

 

たぶん、戦前の生まれである父以前の世代は、結構兄弟姉妹多いんじゃないかな。祖父は、たぶん明治初期から中期の生まれ。詳しく調べていないが、そこそこ兄弟姉妹が多いはず。祖祖父は、たぶん江戸末期から明治に入る頃のような気がする。地元のどこの機関に顔だしても親戚筋がいたね。生きやすいようで生きにくい。そして自分は子供一人。

 

少子化といえばそうですが、無理にそうしたわけでなく、自然と少子化に向かったような気がする。そして現代少子化が問題になっている。この少子化問題は、古代からあった。

 

ローマ共和制時代のグラックス兄弟統治の時代。この時代は、10人の子供を産み育てるのも珍しくない時代だったようです。

 

大正・昭和の時代と同様、このような変動の時代に子供が多く産まれるんでしょうかね。その後、カエサルの時代にはいると、子供が一つの家族に平均2-3人が普通になる。カエサルの後継、アウグストウスの時代にはいると、結婚さえしない人も増え始め、さらには現代のようにLGBTのような問題が出てくるような時代へとはいっていった。

 

アウグストウスの時代に、ローマでは、少子化が大きな問題となっていた。ローマ時代だけでなく他の国家の中で必ずこの問題が噴出するはず。少子問題を論ずることは、歴史も知ることでもある。

 

自由と秩序は、互いに矛盾する概念。自由を尊重しすぎると秩序が破壊される。秩序を守ることに専念すると自由が失われる。人間社会は、この二つを両立しないと困る社会。自由がないところには進歩がうまれず、秩序が守られないと今日の命が守られない。これを狂信と無縁の思考法という。

 

国の強さは、いかに未来の計画をたてて、準備をすすめていくことです。国の将来を決定し、計画を立て、準備する。しかし、いかなる計画、方針にしても、それに参加する全員が、個人個人違った思惑があったとしても自分等にとって利益になると納得しないかぎり計画や方針は成功しないし、その糧を永続させることもできない。平和をめざすのなら、どうしたら平和が続くか計画と準備が必要である。国の将来を決定するシステムについても同様。無防備では平和は訪れない。少子化問題にしても国の安全保障問題。日本は少子が問題だが、世界は人口増加が問題。互いに矛盾する。

 

哲学者プラトンは、時間は永遠というものの動く影体であるといっている。事件の糸をたぐって歩むのが歴史である。そして時間と空間を考察するのが、数学。現象の法則、連関、それらから発生する諸関係。

 

イデアとは、一定の段階における意志の直接の客体制。芸術というのは、イデアを再現したもの。それが造形芸術、詩文芸、音楽へとイデアの認識へと進化し、その認識を伝達することが目的となった。芸術は、時間の歯車を止め、イデアのみが芸術の客観である。

 

人間の美とは、意志の認識可能な形態の最高の段階で表している客観的な表現。ゲーテは、「人間の美を眺める者には、邪念が吹き寄せてくる余地がない。自己自身が一つになり、世界と合致しているという感じをもつ」という。

稀にしかない条件の結果こそが美であり、完全な刻印。優美とは、動作を行う人の動作に対する特有の関係であり、意志と客観化する運動・姿勢を介してあらゆる意志行為を完全にきちんと表現することにある。

 

 

この日本列島を自然のままあらゆるものをを自由気ままにしておけば、美など生まれない。雑草地になったり、砂漠化するかもしれない。人間の手を加え、世話をし続けなければ自然の中に美が生まれない。禅庭にしても同様、人間が手を加え、そして世話をしてこそ、上記のような風景がみられる。

 

前回のブログで、近代の戦いは、個人主義対共同主義の戦いの一面をもつと解釈しました。人類は、何故この地球に生まれたか。その認識の戦いの最中でもある。上記の動画の風景の中に音楽も取り入れている。音楽が表現しているのは、喜び、悲哀、苦痛、驚愕(きょうがく)、歓喜、愉快、心のやすらきなどそれ自体。映像をつなげることによって音楽にしても映像にしても肉体を与えられたものになる。

 

ある人は、人類がうまれた理由は、進化するために生まれた。どう進化するかにしてもいろいろある。進化なでではなく、別の目的のために生まれたという人もいるでしょう。また多くの人間のように、そんなこと考えなく、ただ単にこの世に生まれ生活するだけに生まれた。地球のこやしになるためにと。

 

この進化を目的と考える人の中には、進化そのものを否定する考えをする人もいる。そういう人は、支配者と非支配者を区別する。

 

Ev自動車を批判する人がいるが、EV自動車自体、前の大戦の時代にすでに使われていた。何故現代になってそれが使われるようにしむけたかというと、その先に進化してほしいものがあるからです。歴史事件の裏側には、その先に、人類に何かを進化させたい背後がいる。

 

ある単純なる物質が爆発し、多くの物質が生まれたり、創られたりした。それらの物質が進化、合成、化合したりしながら、生物ができあがり、現代の我々人間の姿になったという進化を研究する人もいる。そして我々人間に、知恵が与えられた。

 

1960年代にすでに量子なるものは、科学の段階で知られていた。当然、日本にもそのような粒子があることは、科学者ではなく修剣道などの修行者の一部は感じていた。それを追求している科学者の中には、その粒子のある性質に気付いた。そこから人類の進化についての考え方が、大きく人類社会の中で大きく変わっていきその対立が現代も続いている。すでにかたは突いたかもしれないが。しかし、どちらも何かを追い求める自分第一主義。エゴの衝突。

 

エゴの衝突が人間の歴史。

 

今後の予測をするわけでもないが、感染症の問題、世界の人口の問題、環境問題、金融問題等は、エゴの対立から解決されていく。人間に知恵が授かったからには、その気づきは必要となる。ただし、人間には選択の自由があり、偶然というのもある。

古代は、自然現象に人類は怯えていた。その怯えを利用したのが、支配者という者達。

 

支配者にしても各時代によって変わる。自然現象に怯えたものたちは、自然が安定するにしたがって、人間の暴力によっておびえるようになる。その暴力を利用したのが、支配者たち。

 

暴力には、暴力で対抗となると動乱となる。支配者等は、どうやって人間を支配していったらいいか思考する。支配者の中で思考の進化がおこる。

 

そこで生まれた一つが宗教。そして人間に対して物の見方を定義させた。それが階級社会。階級社会を形成して秩序を形成させた。父親の属している階級に一生しばられるように。貴族と百姓というようにね。

 

西洋の宗教改革の時代までは、教会のいいなりになっていれば生活が保障され、教会の言いつけを守らないと破門、天罰が下るとされ恐れられた。

 

しかし、宗教改革が始まったことにより、教会の不正、つまり教会や王族などの貴族が、聖書の掟をやぶり、現代でいう政府の政治家と官僚などの役人などの腐敗が明らかにされた。それが不信感をうみ、疑問の海となっていった。多くの庶民は、教会などの宗教者の権威に定義してもらうことになれてしまっており、支配者の指示がないと混乱し、道を失ってしまった。人類の中心を失う。

 

そして、また新たなる支配層が現れ、定義をし直す。それが近代です。そして現在、その定義が、書き直される時代へとはいったのかもしれません。

 

元のクビライの時代は、ちょうどモンゴル騎馬民族の中で、定義が書き換えられる時代。そのときにおきたのが元寇。元が日本に対して6回も使節を派遣したことから、様子がわかる。

 

秀吉は、李氏朝鮮へと出征するときそれぐらい気をつかって李氏朝鮮国と交渉したんでしょうかね。李氏朝鮮・明国へ出征するにしても大義名分などあったのでしょうか。そのことについては、後日考察しますね。

 

では前回の続き

 

肥前襲来

松浦郡、平戸島・鷹島・能古島の松浦党の領地に襲来。松浦党の数百人は打たれ、捕虜となり、壱岐・対馬と同様の惨劇を受ける。

 

赤坂の戦い

元軍は、上陸し現代の福岡市中央区の赤坂に陣を布いた。そこへ肥後の御家人・菊池武房の軍勢が奇襲し元軍を麁原(すそはら)は敗走させた。

 

郷土史研究の方のブログですかね。了解なく紹介させていただきました。ありがとうございます。

 

鳥飼潟の戦い

 

麁原へと向かった元軍は、肥後の御家人・竹崎季長等日本軍の追撃にあったが、逃げ延びた。鳥飼潟の戦いにおいては、日本軍に敗れ、その時に蒙古軍大将・左副都元帥・劉復亨が矢で射止められた。

クビライに仕えた官吏・王惲は、伝え聞いた元寇における武士の様子を「兵杖には弓刀甲あり、しかして戈矛無し。騎兵は結束す。殊に精甲は往往黄金を以って之を為り、珠琲をめぐらした者甚々多し、刀は長くて極めて犀なるものを製り、洞物に銃し、過。但だ、弓は木を以って之を為り、矢は長しと雖えども、遠くあたわず。人は則ち勇敢にして、死をみることを畏れず」 と記しているーーーwikiより

 

百道原・姪浜の戦い

鳥飼潟の戦いで敗れた元軍を追って、日本軍は百道原まで追撃をかけた。

 

鳥飼潟の戦いは日本軍が総力を挙げた文永の役における一大決戦であったようです。

 

ただし、上記とは戦況とは異なる物語も語られている。それが八幡愚童訓。鎌倉中後期に成立したとされる神社縁起。この中では、日本の武士は蒙古軍に対して手ひどく敗北し、内陸深くまで押し込められたものの、夜間に現れた神の軍勢が一夜にして蒙古の船団を追い払ったという物語が語られている。

 

元軍は、太鼓を叩き銅鑼を打って鬨の声(ときのこえ)を発したため、日本の馬は驚き跳ね狂ったとしている。元軍の弓は短いが、鏃(やじり)に毒を塗って雨のごとく矢をはなったため、元軍に立ち向かう術がなかったとしている。元軍に突撃したものは、元軍の中に包み込まれ左右より取り囲まれ皆殺しにされた。元兵は、武士の遺体の腹を裂き、肝をとって食べ、射殺した軍馬も食べたという。

『八幡愚童訓』は、この時の元軍の様子を「鎧が軽く、馬によく乗り、力強く、豪盛勇猛」で、「大将は高い所に上がって、退く時は逃鼓を打ち、攻める時は攻鼓を打ち、それに従って振舞った」としている。爆発した火焔によって追撃を妨害した。また、武士が名乗りを上げての一騎討ちや少人数での先駆けを試みたため、集団で戦う元軍相手に駆け入った武士で一人として討ち取られない者はなかったとしている。元軍は勝ちに乗じて今津、佐原、百道、赤坂まで乱入して、赤坂の松原の中に陣を布いた。これほど形勢が不利になると思っていなかった武士たちは妻子眷属を隠しておかなかったために、妻子眷属らが数千人も元軍に捕らえられたという。

 

結局日本軍は、博多・筥崎を放棄して内陸奥深くの水城へと敗走した。ところが10月21日の朝になると、元軍は博多湾から撤退して姿を消したという。

 

元軍の撤退理由については、八幡神の化身と思われる白装束30人ほどが出火した筥崎宮より飛び出し、矢崎を揃えて元軍に矢を射掛けた。恐れ慄いた元軍は松原の陣を放棄し、海に逃げ出したところ、海から不可思議な火が燃え巡り、その中から八幡神を顕現したと思われる兵船2艘が突如現れて元軍に襲い掛かり元軍を皆討ち取り、たまたま沖に逃れた軍船は大風に吹きつけられて敗走した、としている

 

どちらを信用していいのか。

 

元史によると、元軍は日本に入り、これを破ったが、元軍は整わず、また矢が尽きたため、ただ四境を虜掠して帰還したとしている。また、博多湾上陸以後については触れていない。

 

高麗史には、高麗軍は元軍諸軍と共に協力して日本軍と終日、激戦を展開した。ところが、元軍は激戦により損害が激しく軍が疲弊し、左副都元帥・劉復亨が流れ矢を受け負傷して船へと退避するなど苦戦を強いられた。やがて、日が暮れたのを機に、戦闘を解した。

 

自分が思うに、高麗・元軍の撤退の理由は、左副都元帥・劉復亨の負傷が大きな原因のような気がするね。これも日本側の女真人と劉復亨が仕組んだ演義のような気がするね。また、日本のような地形の国を攻略するのは、当時の軍力では難しい。土地は湿地帯。海は波乱で、兵站の確保は難しい。元・高麗軍は、短期決戦と脅しのつもりで当初出陣したように思えるね。陸続きの場合は、人員・兵器・食糧などの補給や後方連絡線の確保ができるが、対日本では無理ですからね。

 

『金剛集』によると、10月21日の午前6時頃に元軍は悉く博多湾から撤退した。同書では元軍の撤退理由として、夜間に日本側に300余騎の軍勢が現れたことを撤退理由としている

 

前回まで高麗の国内の状況を説明しましたが、国内内乱で高麗国内の兵糧は底をつきかけており、さらに日本征伐のために働き盛り、いわゆる農繁期に工役につかされ、疲弊しまくっていた。高麗王宮ないでも部下に与える報奨すら欠く状況、部下から報酬はいりませんといいたいほどの状況。兵粮が少ないのは、元・高麗軍の幹部は承知済。よって、目的は、日本を脅かすだけ。

 

高麗国は、疲弊しすぎていた。さらに日照りと長雨が続いて稲は実らず、民は、木の実や草葉をとって飢えをしのいでいた時代。第一次日本征伐後、高麗は、クビライに対して船舶・兵糧などの拠出には耐えられないと訴えている。

 

日本列島という島は、大変気候的に恵まれた土地です。四季があり、水はきれいだし、山には、いろいろな木の実がなりそれだけでも食に困らない。よって、古代から住みやすい土地として民衆の数も大陸の地域の中では多い土地であった。だから数万の軍勢も古代日本から送ることができた。

 

元軍は、上陸し戦況を優位にした。しかし、湿地帯である日本、少数ならば陣として構えることができるが、大陸と違い茂み、森の中で陣を構えなければならない。火攻めにあえば一網打尽となる。大きな大陸とは違う。視界も狭い。大陸流橋頭堡を確保できない。建物といってもあばら小屋程度のもの。陸地よりも船に引き揚げた部隊もあったでしょう。

 

しかし、大海の中に浮かぶ船。川とは違う。元・高麗軍は、兵糧を船にのせておけば、兵糧を失うことは、船が沈まない限り安全。また、11月の時期にそこに大きな台風がきたという記録もない。

 

元・高麗船団において、船でさえも橋頭堡にならない事態がおきあがる。それが八幡神の化身30人。

 

 

 

 

 

つまり、倭寇が日本側についたということかもしれませんね。軍船は、ほとんどが木船。すでに爆発物を投げ込む戦術は、古来より存在していた。日本では、厳島の戦いですでに行われている。

 

ここまでで。

 

北条家というのは、もともと信州から相模の方に下って来た武士のようです。よって海戦というのをあまりしらなかった武士。また、当時は、武士は主に土地に縛られるために、陸地戦を得意としており、海戦など頭になかったかもしれないね。特に鎌倉武士は。さらに、海上など交易に関わることは、当時は公家の範囲だったかもしれない、つまり商に関わることは、朝廷公家の領域。

 

当時の元・高麗船団にとっては、一隻でも火攻めにあえば恐怖におびえる。逃げ場が底知れぬ海の中しかないからね。次回はもう少しそのところを考察してみますか。以前にも日本から商品を仕入れたいと大陸の港に訪れた交易商人の話を記述しました。その商人は、自分たちを八幡の民と称したそうです。

 

ではごきげんさんで。