こんにちは、元気ですか(・・?
花粉症の季節に入ってますね。目がかゆいやら、鼻水はでるやら、テッシュが活躍します。朝起きると、のどがからからになっていたり、外出するには、気分がいいように感じるけど、現実は、それらの症状に悩む日。
自分の右手を怪我したときが、ちょうど青山繁晴さんとか橋下徹さん等が、政治やテレビなどで活躍していた時代。ネットなどをつかって、ニックネームなどで交流していた時代。海外のその前からの友人は、別に海外用の呼び名があるからそれ使用していたけどね。日本の本当の名前は、相手には発音しにくいので主に欧米で使われている名。金の取引ならビルとか、他の歴史上の人物の名とかね。
自民党岸田総理にしてもこのブログでいろいろ批判的な記事だしていますが、ネットなどでサーフィンして情報を拾っている人は、岸田総理退陣、自民党下野しよなどという記事もみかけるけれども、やはり予算を扱っている以上、一定数の支持層はいる。
最近の青山さんや橋下さんの動画などをみていると、自分は感じなかったことがわかってくる。つまり老い。
橋下さんも白髪がみえだしてきたし、青山さんも細い目がさらに細くなっているように感じる。といって、自分も同様。自分も髭に白毛が出てきたときは、気分的に愕然としたね。老いは、なかなか自分では気づかない。麻生さんの気持ちがわかるような年に自分もなったということかな。
岸田さんが総理になった時に、いろいろ世間からいわれるのが日本の総理職の姿でもあるから、粛々と行うしかないねとブログで自分ほざいていたね。岸田さんから他の人に変わったとしても、政治・行政システムが変わらない限り、野党であろうが、与党であろうが、政治体質は変わらない。政治・行政システムをかえる位のパワーが、これから政治人や経済人、或いは新哲学派人のような人材がでてくるようでないと、さらにそういう人材が生まれる環境も必要だったかもしれませんね。ちと長い動画ですが、よければどぞ。
【討論】属国という生き方[桜R3/11/22]
日本の検察は、今回の自民党与党の裏金の件は、捜査は派手でしたが、現実はしぼみ後は国民がどう考えるかにかかっている。
下記動画も記事ブログでアップしましたが、茲でも紹介。
ベトナム女性不動産財閥のマグショットが話題…同国GDP3%を横領
歴史ブログですから、歴史の話にすすまないとね。
前回のブログで、日本の公家と元の女真族との関係性に元寇がつながるかもしれないと記事にしました。このブログは、信長考察のブログですから、公家の一族も現代に続いており、あくまでも推測ですので、その公家の正体までは推測しません。
大陸女真族の金国が、元に滅ぼされそうになった時、金は、チンギス・カンことテムジンに、王女を人質に差し出した。その王女は、最高の美女ともいわれていたらしく、王女からしてみればテムジンなどの盗賊集団は、野獣。
[和訳]Beauty and the Beast - Ariana Grande&John Legend
以下のストーリは、小説かもしれませんが、テムジンの側室となることを王女は嫌い、テムジンの所へ向かう途中に逃げだした。その後テムジンによって捕えられるんですが、野生の中に放たれた乙女は、当時は生娘のままいきられるはずがない。しかし、王女は、穢れた服装のままでも生娘のままだと言い通したそうです。テムジンはその言葉を信じたかどうかわかりませんが、その王女をたえず側に置き戦地を移動した。正妻ボルテはいるが、相手は金国の王女。裕福さからいっても王女の方が上。しかし、その王女は、テムジンが戦地から奪ってきた財宝をすべて正妻ボルテと母ホエルンに与えるようテムジンに頼んだ。そのようなものはいらないから、どこの戦地へ移動しようとも必ず自分を一緒に連れていくことを約束させた。
この王女のおかげで、金国が滅び吸収された金国の領民、官僚、軍人も、他国のように跋扈されるわけでもなく、モンゴル帝国において重要な地位を占めれるようになったのかもしれません。
クビライの時代にはいると、女真族が占める位置も敵対する部族も多くなり、勢力もテムジンの時代よりは弱くなっていたのかもしれませんね。井上靖さんの蒼き狼によると、王女との間にできた息子は、領民の子供として知られずに生かされたようです。その事情は、その小説読んでね。
「いたずら百姓」のブログで紹介した記事の多くは、別にこのブログに来る人を洗脳するわけでもなく、信長の考察と紹介された記事が、自分なりに関連性がある記事をアップしています。それだけ信長の時代は、奥深い。よって信長・秀吉・家康の時代は、ひょっとして作り話かもしれなく、人物はいたかもしれませんし、事件などは本当にあったかもしれないが、世界でよく似た物語が登場します。そのために、信長の時代とは全く関係がないと思われる元寇の時代なども考察している。
人間は儀式を生活の中にとりいれている。愛する者を失うと復讐を望む。時には神にさえも。生命を救えばそれだけ悲しみに勝てると考える時もある。誰かが人手にかかると一年間或いは数年喪にふす。その喪が明けると、「溺れる者の裁きを」という人間の感情からわきでるような儀式を川辺で夜通し宴を張り行い、夜が明けると殺人者を泳げないように縛り船から川に落とす。儀式は、藁人形のようなものかもしれないが、本当の殺人者をつかまえればそのようにする。しかし、それを決めるのは遺族等。捕まえた殺人者を生かすか、殺すか。溺れるかそれとも助けるか。運悪ければ溺れ死ぬ。運が良ければ生きられる。最終的には、自業自得ということになる。
『猫の恩返し』(2002)予告編
日本の変わり目の時代、多くの外国人、渡来人が来る。風は西からやってきて変わる。
イエスズ会ザビエルは、鹿児島から上陸、そして京都へと進んだ。その間に、イエスズ会の技術、情報などを日本人に与えた。日本人もそれを喜んで受け入れた。しかし、最終的にザビエル・イエスズ会に見返りもなく、最後は追い出したのが日本。風習の違いもあるかもしれないが、イエスズ会・ザビエル等からしてみれば、日本人はおもてなしという言葉を使いながらも恩返しというのをしない民族として映る。現実は、恩返しというものを忘れた民族になっていたのかもしれない。
この世の不条理を受け入れて命を助ければ、悲しみから解放されるという。悲しみの安易な産物が復讐だといわれる。
自分も怪我をしていろいろな人の助けを借りてきた。自民党や他の野党の議員、そして官僚などの役人、医者。自分の怪我を知った親族或いは国内外の友人・知人等。自分の知らない人の援助もあったかもしれない。生まれてこのかた、多くの人の援助を受け、不平を言いながらも教育を受けさせてもらい、世界のいろいろな国の料理も体験させてもらい自然とその恩恵をうけるありがたさを忘れてしまっていた。
目を閉じて、ずっとずっと深く今まで自分が目にしてた風景をさかのぼる。何が見えるか。一日の約1/3は睡眠にほぼとられているが、目を閉じて今までの毎日目にしていた光景を思い浮かべる。そして新鮮な目で見てみる。
もし、ずっと他の国で生きていたとしたら、どうだったか。ちまたに流れるニュース、政治・経済・社会ニュース。毎日のニュースや光景は、自由を守る戦いだというような光景ばかり。その自由は、自分中心だ。
そのような自由の戦いの中で、ふと身きりをつけてみて、これまでずっと自分につくしてくれた或いはつくしてきた国をみる。自分の場合は、日本と日本の歴史に関わって来たこれまでの外国。旅行好きな方はいろんな外国を見て回る状況を見るのもいい。
宇宙、地球、世界もまたこれまでずっと自分につくしてくれたし、自分もそれなりにつくした世界をみる。純粋な目で。年齢など関係ない。20歳でも40歳でも80歳でも100歳でも、現時点で目をつぶり純粋な目となって毎日見てきた光景を思い浮かべながら見てみる。
その時に初めて自分の自由を手に入れたと感じる時が来る。そしてあの人達、光景に浮かぶ人等をみる。
自由な人間などいるか。重いしがらみ、不安、ストレス、恐れ、失敗、侮辱、裏切り。世間にもまれてよかったという人いるか。生まれ変わって同じ人生を送りたいと思う人はいるでしょうか。目をつむりながらふときづく。多くの他人は、現時点の自分のような自由な状態の中で暮らしたいんじゃないかと。
瞑想などの本も読んでいるが、たまに瞑想しているとふとそのようにきづくことがある。といって自分流瞑想方法ですがね。瞑想すると眠ってしまうので、現地点から過去を思い出しながらとか、現地点から未来の光景を描きながらとか夢を見ている感じて瞑想しているとふと気づくのがそのこと。
和菓子の極致!京都老舗、創業100~300年の伝統が詰まった25選を一挙ご紹介!🍡京都和菓子/京都老舗/京都旅行/京都観光/京都グルメ
このようなグルメなどを一般庶民が試せる機会など信長の時代にはなかった。それが現在にはある。
江戸時代の庶民の生活を収めた写真を高画質&カラー化!1800年代幕末の動乱期を過ごした農民や商人の姿
信長の時代以前は、真実はこのような江戸時代は、夢の世界だったかもしれないね。このブログでは、自分の先祖も紹介している。もともと自農家。しかし、父親は、農家の長男だったけど、農作業など若いうちはしたことがなかったようです。父系の祖父は、明治生まれのせいか、日露戦争後、農家にもどったが恥ずかしい話だが、相続争いや昭和恐慌などがあり、非常にくるしんだらしいから、農作業はしていたらしい。兄弟相続分割だからその分土地も減ったこともあったようですが。しかし曾祖父というと、父の話をきくと農作業などしたところみたことがないという。いわゆる昔の公家さんのように、俳句とかそういうことばかりしていたという。百姓といっても普通に考えている生活とは大分違う。
母親の家系も自作農。といってもこれまた百姓といっても江戸時代以前は、ほとんどある程度の年齢になったら養子へと送り出されていたような家系。
半島を含む中国大陸の人と話すと必ず本貫は何々と言葉を返す。日本の社会は、男系血筋を重視する記事を目にするが、江戸時代以前は、それほど重視しているようにはみえない。自分の家系も本籍に住んでいたのが足利末期の時代頃だとは推測できるが、それ以前はまったくわからない。
自分が怪我したときに気付いたんですが、我々庶民である日本人には、庶民の知らないとこで地下水脈というのがあるのかもしれない。何故か自分が窮地に陥った時にどこからかわかりませんが、ふと助けや援助があらわれたり、或いはこちらはわからずに妬みや嫉妬を受けたりする。このようなことを考えるようになった時のは、自分の目の前に不可思議な現象が起きた時からかな。
元寇の対馬上陸に行く前にもう少し他の説明を。
出生数過去最少 5%減少 婚姻数は6%減少(2024年2月27日
少子高齢化という問題は、日本だけの問題ではなく、米国、ロシア、中国など他の先進国でも一つの課題でもあり、その課題に対して古代でもその問題に直面していた。
生き残るための勉強会「みんなで平和な日本に造り替えよう」(2024.1.21)山種美術館
ロシアは、この先2-3年位で大きく動くでしょうね。それも人口動態の問題から。ヨーロッパも米国も同様。その対策がここ2-3年で現れる。といって日本もまたこの対策を一部はしているようにみえる。それは何故かというと高橋五郎さんの本を読んだときわかったね。昭和天皇の国師という人が、この本で紹介されていたが、その国師が、令和天皇の時代にどうなるか予想していたみたいですからね。
近現代の考察はする気は何度も申しているように現在はする気はないですが、動画などでアップしている人は、主に国内の人がアップしている動画ですが、どうもなんかの知識が少ないような気がする。これは歴史のない国、いわゆる歴史を学問としていない国の人には仕方がなかったと言えばそうですが、近現代の歴史を紹介する場合は、それが足りないような気がする。これは自分の意見ですが。
江戸時代のオランダ商人が、江戸時代の武士、商人の特徴の話もしていたらしいが、特に哲学、音楽、数学の知識が少ないと記述していたね。当時の日本の数学は、算数。そして近現代の我々が最も知らなければならないのが、社会学。これもある外国人に昔いわれたね。
社会学というのは、家族学でもある。家族の種類は、大きく分けて6つある。
1.絶対核家族
子供は成人後、親元を離れ結婚後独立し、独立した世帯を持つ。遺産相続は、親の遺言で決まり、親子関係は自由で、兄弟間には無関心。これは現在の英米など。
2.平等主義核家族
子供は結婚後独立した世帯を持つが、相続は平等。男女の差別はない。フランス北部、パリ盆地、スペイン、イタリア南部など
3.直系家族
男子長子が結婚後も親と同居し、すべてを相続。親子関係は権威主義で兄弟間は不平等。日本、ドイツ、フランス南西部、スウエーデン、ノルウエー、韓国など。
4.共同体家族
男子が全員、結婚後も親と同居する。家族が一つの共同体となる。相続は、兄弟間平等で、親子関係は権威主義的。
5.外婚制共同体家族
いとこ婚を認めない共同体家族。中国、ロシア、北インド、フィンランド、ブルガリア、イタリア中部トスカローナ地方など。
6.内婚制共同体家族
イトコ婚などで形成する共同体家族。アラブ地域、トルコ、イランなど
いちようわかりやすいように国を挙げていますが、どの国にも歴史があり、家族形態も時代によって変わるが、大体この6つに入るように思えます。
大家族→核家族→個人主義
という流れがある。
大家族が現れたのが主に農業の出現から。農業などの共同作業が必要ないときは、核家族形体。となると最も原始的なのが核家族。我々日本人もまた、古代から現代までにそれらの家族社会の変化を体験してきた。農業主体の共同社会体制になるとメソポタミア・シュメール時代のように長子相続制となる。
厳しい自然環境にあうと、男と女という共同もしくは連帯的な関係なしには生き残ることができない。つまり、厳しい自然や激しい自然の変化などがあると、食糧不足、伝染病などがおこり、切り捨てる者もでてくる。例えば老人とか子供。現実は、どの人類もそういう世界を経験してきた。そういうのもを斬り捨ててきたのが、いわゆる狩猟・採集民。生き残るに必要なのが、自由であり柔軟性。
父系制という直系家族。その場合は、長男を特別視します。そうすることで、先祖というか前世代の獲得物を次世代に効率よく継承させることができる。先祖から生活知識から蓄えられたのを受け継ぐために、教育水準が高くなる。現代の政治家の世襲主義というのは、親の利得を子が得られ、その資本の蓄積が可能だからですね。相続税がかからない政治団体などでね。
しかし、硬直化しすぎると創造的破壊ができなくなる。これが老人支配。
これが核家族に変わると、どうなるでしょうか。成人すると親元から独立する社会へと変わる。移動性が加わるから、世代間断絶がおきる。継承から革新へと変わる。儒教というのは、老人支配という直系家族からうまれたもの。
プーチンの演説をこのブログは紹介しています。プーチン大統領は、宗教・家族・習俗というタームを用いてよく語っている。プーチンの語っていることは、共同主義。しかし、他の中国を除く先進国は、個人主義。つまり現在対立している大きな原因が、集団主義と個人主義という闘い。習近平さんも毛沢東主義。
現代の日本政府は、個人主義を掲げ、一般の庶民は、集団主義を求めているように思えるね。ただし、日本政府の個人主義は、権益継承主義による公家主義に近い。公家主義というのは、どういう性格を持つか。
日本の場合を見てみますか。
ロシアと対立として世界にみせていながら、ロシアの航空機に対して自国の領空を開放している。日本の航空貨物機は、シベリア上空を飛んでいるしね。サハリンにしても権益は維持している。ここにきて、ロシアのガスは輸入している。ロシアは、ロシアで、日本海域の鮭、鱒の入漁料を払ってくれている。それを日本は認めている。ロシアに対しては、大手商社がすでに交流をしかけているし、その中に元皇族まではいっているらしい。
そういう立ち位置を示している日本に対して、昨年からおきている外交事項、岸田総理の外国訪問弛、そして上川外相の訪問地、さらには、パンデミック条約などの批判的な場所での日本政府の立場。なんか仕組まれているね。それに日本政府や奥の院は気づいているのかね。
日本では、長子相続という直系家族というのは、主に明治に入ってから。ある程度は、鎌倉時代以降から定着したんですが、本格的庶民に根付いたのは、明治維新により民法によって定まり、かつ皇室がそれを適用してからです。
中国習近平政権が、国内でごたごたしているのも中国内の家族形態が変化しているのも原因。直系家族は、継承を重視するために政権交代などなかなか起きない。宗教争いにしても基本的には家族構造の違いからおきている。キリスト教は、外婚制であり、イスラム教は、内婚制。さらに騎馬民族などの北方民族は、自然環境が厳しく、大家族で食べていける余裕がない。よって核家族以外しか生きてゆけなかった。
共同体家族社会というのは、一人一人が拒否権を持つ。よって満場一致になるまで動くことができない。動くことができないならば外敵の脅威などがおきないとまとまらない。その点、核家族社会の場合、代表制や多数決が受け入れられやすい。
イギリスなどの北方民族は、肥沃な土地でもなく国内の生活のままでは、いつまでも貧しい生活となる。そんなことをしていては、いつまでたっても豊かになれない。そして考える。いつまでも貧しいゆえに貿易で豊かになろうと。これがイギリス流。日本は、鎖国までしながらイギリス流を守ろうとしている現政府。環境や家族社会などを調べていくと、どの地域も違う。細かいところまで見ていくと日本国内でも地方によって違う。
日本の法体系は、昭和の戦前は、ドイツ系の旧刑事訴訟法を参考にし、戦後は、英米系を参考にした。日本は、外国にあたえられてきたものを受け入れ、それをもとに家族社会を変えようと強制してきた。日本人は、そのつもりはないかもしれないが、現実はそうだった。ウクライナ問題にしてもロシアと米国とでは、考え方、捉え方が違う。ロシアからウクライナ問題をみれば、死活問題。しかし、米国から見れば単なるパワーゲームにしかみれない。米国は、大海に囲まれた島国。大西洋、太平洋という大海に守られている。しかし、現代は、その防壁さえ意味がなくなりつつある。アメリカの地政学的公理の基本が変わりつつある。つまり、アメリカは、間違いを繰り返すことができない時代へと入っていったことを示す。では、日本はどうか。このブルグを見に来た人は考えてほしいね。
間違いを繰り返すことができなくなった米国は、まず変わるだろうね。生産力を表すGDP。これすらもう測る尺度として効力をすててるでしょうね。必要なのは、モノを生産できる労働人口とエンジニア重視へと変わる。それがアメリカ共和国。たぶん、民主党も共和党もそれに沿って動いていると思うね。よって、米国内の対立は、プロレスと自分はみている。
どうでも関係ないことを記述しましたが、それらを頭に入れて元寇にすすみますか。少し長くなったね。
モンゴル帝国というのは、キングダムの人気キャラクター桓騎将軍のような部隊の国。その部隊が、中国大陸の宗主国となる。その国を行政で動かすことができるのは、騎馬民族ではなく、他の部族。つまり、元という大国は、派閥争いが激しい。しかし、モンゴル兵に歯向かうと民族皆殺しという仕打ちに合う。
チンギス・カンことテムジンの時代は、女真族にとってテムジンに絶えず側にいた王女がいた。しかし、テムジン死後は、そのような有力者もいたかもしれないが、その地位をえるために他の部族も美女を差し出す。熾烈な派閥争いが、元帝国内で現れる。女真族は、日本との交易を一つの材料にしたかもしれないね。
少子化についての歴史については、次回に回しますね。どの時代も家族構造によって社会は変わっていく。
当時東国御家人は、九州に所領を持っていた。東国というのは、畿内から見て東の国。戦場地は、九州が中心になるということは、半島にはなっていた諜報から得ていたんでしょうね。
1272年(文永9・至元9)北条時宗は、異国警固役を設置、鎮西奉行として大友頼泰・少弐資能(しょうにすけよし)の二名を派遣、元軍の襲来が予想される筑前・肥前の要塞の警固、博多津の沿岸警固の総指揮にあたらせる。鎮西とは、九州を指します。
蒙古襲来という状況の中、北条家に内紛が起こる。執権北条時宗に対する内紛である。こんな時に何故内紛がおきるんでしょうかね。北条家でも意見が割れていたのかもしれませんね。
時宗の庶兄である北条時輔は、京の六波羅探題にいて影響力を持っていた。
六波羅探題
詳細は、二月騒動のwikiをどぞ。
北条時宗は、この内紛を解決したことにより、筑後・大隈・肥後の守護職は、安達泰盛・大友頼泰を配地し、時宗の影響力を強化し、さらに京における反時宗派である動きを封殺した。時宗独裁体制が強化された。公家は絶対自らは動かないからね。やはり元に対して、鎌倉得宗家時宗派と反得宗家・名越家との争いに公家が介入していた可能性が高い。基本的に、王家につながる公家は、戦いを好まない。負ければ公家の地位などなくなるからね。和解し、負担を求められれば庶民に負担させればいいという考え。現財の地位安定が大事。それを利用して権力を握ろうとする、蒙古襲来という危機的状況にもかかわらず、今しか見れない庶民の集まりである武士等。これも家族構造社会に関係する。
1274年、モンゴル人都元帥クドウンを総司令官として、漢人の左副元師・劉復亨(りゅうふくこう)、高麗人の洪茶丘(こうさきゅう)を副将とし、15000-25000人の主力軍、そして高麗軍として都督使・金方慶5300-8000、そして水夫を含めると27000-40000人を乗せた軍船が、出航した。
対馬の台風の時期は、現在では7月から9月。鎌倉時代はどうか調べていませんが、たぶん同じ位でしょう。10月に出航したのは、台風を避けたのかもしれない。10月5日に対馬の小茂田浜(こもだはま)に襲来。対馬からみれば突然上陸した気配であり、元軍に来着の事情を尋ねさせようとしたところ、突然船から矢をはなってきたという。いわゆる奇襲攻撃。対馬守護代・宋資国は、元軍の襲来を伝達するため、博多へ向かわせた。
この時の対馬の惨状について、日蓮は以下のように伝聞を伝えている。
去文永十一年(太歳甲戌)十月ニ、蒙古国ヨリ筑紫ニ寄セテ有シニ、対馬ノ者、カタメテ有シ総馬尉(そうまじょう)等逃ケレハ、百姓等ハ男ヲハ或八殺シ、或ハ生取(いけどり)ニシ、女ヲハ或ハ取集(とりあつめ)テ、手ヲトヲシテ船ニ結付(むすびつけ)或ハ生取ニス、一人モ助カル者ナシ、壱岐ニヨセテモ又如是(またかくのごとし)『日蓮書状』、高祖遺文録
- 「この文書は、文永の役の翌々年に書かれたもので、これによると元軍は上陸後、宗資国以下の対馬勢を破って、島内の民衆を殺戮、あるいは捕虜とし、女性の「手ヲトヲシテ」つまり手の平に穴を穿ち、これを貫き通して船壁に並べ立て、あるいは捕虜としたとしている。
- この時代、捕虜は各種の労働力として期待されていたため、モンゴル軍による戦闘があった地域では現地の住民を捕虜として獲得し、奴婢身分となったこれらの捕虜は、戦利品として侵攻軍に参加した将兵の私有財として獲得したり、戦果としてモンゴル王侯や将兵の間で下賜や贈答、献上したりされていた」
wikiより
10/14 壱岐侵攻
圧倒的兵力の差で壱岐守護代・平景隆は、自害。
日蓮は、この時の惨状を
「壱岐対馬九国の兵並びに男女、多く或は殺され、或は擒(と)らわれ、或は海に入り、或は崖より堕(お)ちし者、幾千万と云ふ事なし」
いよいよ肥前上陸です。
対馬・壱岐の状況が大宰府に伝わり、京都・鎌倉へ向けて急報を発するとともに、九州の御家人が大宰府に集結するようになる。その当時は、大きな川は、渡し船であり、筑後川を渡るのに時間がかかった。そこへ筑後の神代良忠は、筑後川に船を並べ、その上に板を渡し、南九州の諸軍を速かに博多に動員した。こうして集まった九州の御家人は、鎮西奉行の少弐氏や大友氏を始め、紀伊一類、臼杵氏、戸澤氏、松浦党、菊池氏、原田氏、大矢野氏、兒玉氏、竹崎氏已下、神社仏寺の司まで馳せ集まったとしている。
10月20日、博多湾のうちの早良郡に襲来。しかし、元軍の上陸地点は、諸説がある。
ここまでで。
次回は、第一次蒙古襲来の主な戦いを紹介。
元軍総指揮官クドウン
モンゴル人武将といなっているが、船などのったことあるんですかね。海と川とでは違うからね。
漢人の左副元帥・劉復亨
済南府斉河県の出身の漢人軍閥。漢人だが、女真族の血も混じっているような気がするね。
高麗人の右副元帥・供茶丘
父は、元高麗の軍人。モンゴル兵に降伏し、モンゴルの兵として高麗侵攻に協力。父は、高麗の王族の讒言を受けて、元で処刑された。その後名誉回復されたが、そのこどもが洪茶丘。
たぶん洪茶丘の部隊の多くは、元高麗人が多いような気がするね。60万人位の高麗人が、モンゴル兵の捕虜として住み替えさせられたからね。王族や武家が、島へ逃げてしまったから、高麗王に対しての忠誠心など失せているね。
元軍総指揮官クドウンの方も、どちらかというと女真族が多いような気がする。クドウン自体もモンゴル人だといわれているが、結構不明で、女真族の少しばかり海を知っている軍人だったかもしれない。
船の上での戦いは得意とはいえない軍隊だから、奇襲攻撃をかけてきたともいえる。通常、日本側としては、スパイを半島に送り込み、攻撃を仕掛けてくるの予定日をある程度知らせる体制をするものだが、モンゴル・高麗側にスパイ網を破られたか。まあ、日本らしく、軍隊がきたのに何にしにきたのという対馬の態度からして、いかにも日本人らしいと自分は思えるね。
ではごきげんさんで。